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	<title>marges de la linguistique</title>
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		<title>marges de la linguistique</title>
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		<title>胡椒、辛子、唐辛子</title>
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		<pubDate>Sun, 19 Feb 2012 05:26:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator>theuthe</dc:creator>
				<category><![CDATA[03 absurdités]]></category>

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		<description><![CDATA[香辛料をどう呼ぶか 胡椒とは何か、辛子とは何か、私たちはよく知っているような気になっている。ところが改めて考えてみると、これが意外と曖昧で難しい問題だと判る。 もとより香辛料というものは東西南北の文化が相互交流をするようになってから手に入るようになったもので、ざっくり言って古代中世ヨーロッパには広く知られていなかったか、手に入らなかった、手に入りづらかったものである。『狼と香辛料』ではないが、それはヨーロッパ中世にとっては著しく珍しい文物であり、しばしば大変高価なものですらあった。よく知られた話である。大航海時代以降に世界の食の風景は一変している。それであるから胡椒とか、辛子とか言うものが、多くの文化圏にとって「新参者」であり、呼称上の混乱を招いたということは理解出来る。 ここで既に、胡椒や辛子をめぐって「呼称上の混乱」などあるだろうかと訝しむ向きもあろうかと思う。胡椒といえばラーメンにぱっぱと振りかけるあれだろう、辛子といえば黄色い練り物でおでんに添えるあれ、唐辛子といえば「一味」とか「七味」とか言う形で売られているあれ……どこに混乱があるものか。GABAN社なりSB食品なりのラベルがついて、どこの食卓にも普通に見られる「あれ」。さらに言えば原料となる植物種もきちんと知られている訳で、混乱どころか植物学的にもはっきり同定されているものではないか。胡椒と言えば胡椒の実を挽いたもの、辛子といえば辛子菜の種、はっきりしたものではないかと…… ところがこれが錯覚なのである。「胡椒」とか「辛子」とかいう言葉は、実は食味にある種の香りと辛味を添える「食文化上のきわめて漠然としたカテゴリー」に与えられた大変便宜的な名称であって、食味における「抽象的で文化的な役割」に与えられた抽象的存在の「名前」なのだ。その実態は相当に曖昧なものと見える。そんなことにフランスのマーケットの調味料の棚を眺めていて気付かされた。 柚子胡椒は胡椒なのか ひとまず日本のことに限ってもよい。胡椒とか辛子という言葉が既に自明なものであると思っている向きには、こう質問してみたい。「柚子胡椒」は胡椒ですか？ 柚子胡椒というのは柚子の香りを利かせた香辛料で、その実態はむしろ「獅子唐、あるいは唐辛子」の練り物である。柑橘系の香りが加わったハラペーニョ・ソースと言ってもよい。ちょっとした焼き物や炙り物に添えると旨い。刺し身でも合うものがある。それでは柚子胡椒のどの辺が「胡椒」なのだろうか。胡椒なんて一粒、一欠片たりとも入っていないのに。 九州地方北部では唐辛子を「胡椒」と言い習わすことはよくあるそうで、地域が唐との関係が深かったので「唐枯らし」に通じる「唐辛子」の語を避けたのだという一説があり、ウィキペディアの「胡椒」の項にもそう書かれている。だが牽強付会であろう。民間語源の怪しさが漂っている。これはそんなローカルで偶発的な問題ではない。もっと普遍的な現象だ。大体、唐辛子は唐から伝わったものではない。中華でも明代以降の輸入品とされており、どこに唐に配慮する必要があるのか。だいたい、ここで言う「唐」とは「南蛮」とか「舶来」というのと同じ程度の意味しかない。 あれを「胡椒」と言っているということに、呼称上の混乱や単なる忌み言葉ではなく、もっと文化的な意味を見いだそうではないか、というのがこの小文の趣旨である。 ペッパー・ソースは胡椒なのか あるいは「ペッパー・ソース」というものがある。日本では圧倒的な寡占を誇るマキルヘニー社の商標から、一般に「タバスコ」と呼ばれている。 このペッパー・ソースが唐辛子由来のものであることは、色味、辛味からも明白なことである。これに似た「緑色バージョン」のハラペーニョ・ソースも最近ではよく知られていることと思う。こちらは辛めの獅子唐ソースみたいなものか。すでに何が言いたいのかはお分かりだろうが、「ペッパー」と言えば普通は「胡椒」のことである。「ソルト＆ペッパー」といった具合で、食卓に普通に置いておき、なんなら各人が各様に自分の皿に足して良い基本的な食味であり、食卓上のレギュラーメンバーである。そして「ペッパー」というのが胡椒のことであると知らないものもない。では「ペッパー・ソース（タバスコ）」はどの辺が「胡椒」なのですか？ コロンブスが胡椒 pepper と唐辛子 piment を混同していたという話なども伝わっているが、これも北九州の「胡椒＝唐辛子」と同じような牽強付会であろうか。胡椒と唐辛子は単なるローカルな間違いで混同されていたのではないと考える。それはもっと明白で普遍的な「カテゴリーの共用」がもたらした必然的な混乱だったのではないだろうか。 本来の胡椒 「胡椒」というのは基本的には植物学的に言う「コショウ科コショウ属のつる性植物 (Piper nigrum) の実」を挽いたものであり、黒胡椒と白胡椒が普通にある。 黒胡椒は外皮ごと挽いたもの、白胡椒は水に浸けて外皮を剥いてから挽いたものである。これがまずは植物学的な定義ということになろう。 だが食味における「胡椒」は、上で見たように洋の東西を問わず、明らかに「唐辛子ゾーン」も包含しているのである。洋の東西を問わない。柚子胡椒もタバスコも、やはり「胡椒」と呼ばれる……　いや、そればかりか……混乱はもっと入り組んでいる。 フランスの一味唐辛子 フランスでは食味として「唐辛子」に相当するのは「ピモン・ド・カイエン (Piment de Cayenne)」である。これは学名 Capsicum frutescens の実（日本に言う鷹の爪）を挽いたもので、ほぼ「一味唐辛子」に相当するスパイスとして普通に売られている（ちなみに普通のフランス人は辛味が苦手で、こうした「極端に」辛いものは避けがち。これを買うのは主にマグレブ系とアジア人である）。日本の調味料のコーナーでは「カイエン・ペッパー」と呼ばれている調味料である。 これはチュニジア料理では基本的な香辛料で、ハリッサ（フランス人はアリッサと言う）という「練り辛子」の形で、缶詰め、瓶詰め、チューブ入りと、いろいろに売られている。クスクスなど添える調味料で、うっかり着け過ぎると舌が焼けるような辛さである。日本で言うと「寒ずり漬け」のソース部がほぼ相当すると思われる。この原料が件のカイエン・ペッパー（チリ・ペッパー）。面白いのは現地語で原料の唐辛子（日本に言う唐辛子、もう大分混乱してきたが大丈夫ですか、着いてきていますか）を「ピリ・ピリ」と言う。 和風の一味唐辛子が手に入らないので、我が家では上の Piment de Cayenne（上のDucros社のもの）を蕎麦に振り、手羽先の焼き鳥にかけている。さて、それでは Piment de Cayenne は、はたして「唐辛子」なのだろうか、それとも「胡椒（ペッパー）」なのだろうか、それとも言葉通りに「ピーマン」なのだろうか？ ピーマンとは何か 新たにピーマンが話に加わった。ピーマンといえば日本ではすでに標準的な野菜であり、嫌いな子供も多いが普通に食卓に上る。好き嫌いはともかくピーマンを知らない人もいるまい。では、変な質問に聞こえるかも知れないが、ピーマンははたして「胡椒」なのか「唐辛子」なのか？　マザーグースに「Peter Piper picked a peck of pickled peppers」という頭韻で遊んだ Tangue twister（早口言葉）があるが、ここでいう peppers はペッパー・ピクルス、すなわち唐辛子の漬け物のことだが、日本風に言えば獅子唐の酢漬けのことだ。 [...]<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=marginaliae.wordpress.com&amp;blog=14250802&amp;post=273&amp;subd=marginaliae&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>香辛料をどう呼ぶか</strong></p>
<p>胡椒とは何か、辛子とは何か、私たちはよく知っているような気になっている。ところが改めて考えてみると、これが意外と曖昧で難しい問題だと判る。</p>
<p>もとより香辛料というものは東西南北の文化が相互交流をするようになってから手に入るようになったもので、ざっくり言って古代中世ヨーロッパには広く知られていなかったか、手に入らなかった、手に入りづらかったものである。『狼と香辛料』ではないが、それはヨーロッパ中世にとっては著しく珍しい文物であり、しばしば大変高価なものですらあった。よく知られた話である。大航海時代以降に世界の食の風景は一変している。それであるから胡椒とか、辛子とか言うものが、多くの文化圏にとって「新参者」であり、呼称上の混乱を招いたということは理解出来る。</p>
<p>ここで既に、胡椒や辛子をめぐって「呼称上の混乱」などあるだろうかと訝しむ向きもあろうかと思う。胡椒といえばラーメンにぱっぱと振りかけるあれだろう、辛子といえば黄色い練り物でおでんに添えるあれ、唐辛子といえば「一味」とか「七味」とか言う形で売られているあれ……どこに混乱があるものか。GABAN社なりSB食品なりのラベルがついて、どこの食卓にも普通に見られる「あれ」。さらに言えば原料となる植物種もきちんと知られている訳で、混乱どころか植物学的にもはっきり同定されているものではないか。胡椒と言えば胡椒の実を挽いたもの、辛子といえば辛子菜の種、はっきりしたものではないかと……</p>
<p>ところがこれが錯覚なのである。「胡椒」とか「辛子」とかいう言葉は、実は食味にある種の香りと辛味を添える「食文化上のきわめて漠然としたカテゴリー」に与えられた大変便宜的な名称であって、食味における「抽象的で文化的な役割」に与えられた抽象的存在の「名前」なのだ。その実態は相当に曖昧なものと見える。そんなことにフランスのマーケットの調味料の棚を眺めていて気付かされた。</p>
<p><strong>柚子胡椒は胡椒なのか</strong></p>
<p>ひとまず日本のことに限ってもよい。胡椒とか辛子という言葉が既に自明なものであると思っている向きには、こう質問してみたい。「柚子胡椒」は胡椒ですか？</p>
<p>柚子胡椒というのは柚子の香りを利かせた香辛料で、その実態はむしろ「獅子唐、あるいは唐辛子」の練り物である。柑橘系の香りが加わったハラペーニョ・ソースと言ってもよい。ちょっとした焼き物や炙り物に添えると旨い。刺し身でも合うものがある。それでは柚子胡椒のどの辺が「胡椒」なのだろうか。胡椒なんて一粒、一欠片たりとも入っていないのに。</p>
<p>九州地方北部では唐辛子を「胡椒」と言い習わすことはよくあるそうで、地域が唐との関係が深かったので「唐枯らし」に通じる「唐辛子」の語を避けたのだという一説があり、ウィキペディアの「胡椒」の項にもそう書かれている。だが牽強付会であろう。民間語源の怪しさが漂っている。これはそんなローカルで偶発的な問題ではない。もっと普遍的な現象だ。大体、唐辛子は唐から伝わったものではない。中華でも明代以降の輸入品とされており、どこに唐に配慮する必要があるのか。だいたい、ここで言う「唐」とは「南蛮」とか「舶来」というのと同じ程度の意味しかない。</p>
<p>あれを「胡椒」と言っているということに、呼称上の混乱や単なる忌み言葉ではなく、もっと文化的な意味を見いだそうではないか、というのがこの小文の趣旨である。</p>
<p><strong>ペッパー・ソースは胡椒なのか</strong></p>
<p>あるいは「ペッパー・ソース」というものがある。日本では圧倒的な寡占を誇るマキルヘニー社の商標から、一般に「タバスコ」と呼ばれている。</p>
<p>このペッパー・ソースが唐辛子由来のものであることは、色味、辛味からも明白なことである。これに似た「緑色バージョン」のハラペーニョ・ソースも最近ではよく知られていることと思う。こちらは辛めの獅子唐ソースみたいなものか。すでに何が言いたいのかはお分かりだろうが、「ペッパー」と言えば普通は「胡椒」のことである。「ソルト＆ペッパー」といった具合で、食卓に普通に置いておき、なんなら各人が各様に自分の皿に足して良い基本的な食味であり、食卓上のレギュラーメンバーである。そして「ペッパー」というのが胡椒のことであると知らないものもない。では「ペッパー・ソース（タバスコ）」はどの辺が「胡椒」なのですか？</p>
<p>コロンブスが胡椒 pepper と唐辛子 piment を混同していたという話なども伝わっているが、これも北九州の「胡椒＝唐辛子」と同じような牽強付会であろうか。胡椒と唐辛子は単なるローカルな間違いで混同されていたのではないと考える。それはもっと明白で普遍的な「カテゴリーの共用」がもたらした必然的な混乱だったのではないだろうか。</p>
<p><strong>本来の胡椒</strong></p>
<p>「胡椒」というのは基本的には植物学的に言う「コショウ科コショウ属のつる性植物 (Piper nigrum) の実」を挽いたものであり、黒胡椒と白胡椒が普通にある。</p>
<p>黒胡椒は外皮ごと挽いたもの、白胡椒は水に浸けて外皮を剥いてから挽いたものである。これがまずは植物学的な定義ということになろう。</p>
<p>だが食味における「胡椒」は、上で見たように洋の東西を問わず、明らかに「唐辛子ゾーン」も包含しているのである。洋の東西を問わない。柚子胡椒もタバスコも、やはり「胡椒」と呼ばれる……　いや、そればかりか……混乱はもっと入り組んでいる。</p>
<p><strong>フランスの一味唐辛子</strong></p>
<p>フランスでは食味として「唐辛子」に相当するのは「ピモン・ド・カイエン (Piment de Cayenne)」である。これは学名 Capsicum frutescens の実（日本に言う鷹の爪）を挽いたもので、ほぼ「一味唐辛子」に相当するスパイスとして普通に売られている（ちなみに普通のフランス人は辛味が苦手で、こうした「極端に」辛いものは避けがち。これを買うのは主にマグレブ系とアジア人である）。日本の調味料のコーナーでは「カイエン・ペッパー」と呼ばれている調味料である。</p>
<p>これはチュニジア料理では基本的な香辛料で、ハリッサ（フランス人はアリッサと言う）という「練り辛子」の形で、缶詰め、瓶詰め、チューブ入りと、いろいろに売られている。クスクスなど添える調味料で、うっかり着け過ぎると舌が焼けるような辛さである。日本で言うと「寒ずり漬け」のソース部がほぼ相当すると思われる。この原料が件のカイエン・ペッパー（チリ・ペッパー）。面白いのは現地語で原料の唐辛子（日本に言う唐辛子、もう大分混乱してきたが大丈夫ですか、着いてきていますか）を「ピリ・ピリ」と言う。</p>
<p>和風の一味唐辛子が手に入らないので、我が家では上の Piment de Cayenne（上のDucros社のもの）を蕎麦に振り、手羽先の焼き鳥にかけている。さて、それでは Piment de Cayenne は、はたして「唐辛子」なのだろうか、それとも「胡椒（ペッパー）」なのだろうか、それとも言葉通りに「ピーマン」なのだろうか？</p>
<p><strong>ピーマンとは何か</strong></p>
<p>新たにピーマンが話に加わった。ピーマンといえば日本ではすでに標準的な野菜であり、嫌いな子供も多いが普通に食卓に上る。好き嫌いはともかくピーマンを知らない人もいるまい。では、変な質問に聞こえるかも知れないが、ピーマンははたして「胡椒」なのか「唐辛子」なのか？　マザーグースに「Peter Piper picked a peck of pickled peppers」という頭韻で遊んだ Tangue twister（早口言葉）があるが、ここでいう peppers はペッパー・ピクルス、すなわち唐辛子の漬け物のことだが、日本風に言えば獅子唐の酢漬けのことだ。</p>
<blockquote><p>Peter Piper picked a peck of pickled peppers;</p>
<p>A peck of pickled peppers Peter Piper picked;</p>
<p>If Peter Piper picked a peck of pickled peppers,</p>
<p>Where&#8217;s the peck of pickled peppers Peter Piper picked?</p></blockquote>
<p>ピーマンが唐辛子や獅子唐の兄弟であるということは誰でも一目で分かることだろう。日本においてはピーマンは、幼児の拳ほどの小ぶりの実で、色は決まって緑で、皮が薄くて味に苦味がある。私の意見としては、切り口にちょっとレモンの香りがある。日本では肉詰めピーマン、中華なら青椒肉絲（チンジャオロウスー）に使うあれである。実は、これはヨーロッパではあまり見ない。</p>
<p><strong>フランスのピーマンはパプリカなのか、胡椒なのか</strong></p>
<p>ここフランスでは日本のピーマンに相当するものは普通には売っていない。普通に売っているのは、日本に言う「パプリカ」である。すなわち赤ピーマン、黄ピーマン、その類いの大振りの緑ピーマン。大きさは大人の拳以上のサイズで、日本で言うピーマンほどの苦味はない。やや大味で甘味があって、悪く言うと実にしまりがない。これがラタトゥイユやパエリヤやなにかの材料になる。</p>
<p>このパプリカ、フランス語で言うと Poiveron（ポワヴロン）と言う。フランス語では胡椒を Poivre（ポワヴル）と言うから、やはり「胡椒」の仲間と見なされている訳だ。さあどうしよう？　パプリカは「胡椒」なのか「唐辛子」なのか、それともやはり「ピーマン（ピモン）」なのか？</p>
<p>ややこしいことに、日本語でパプリカと呼ばれているのは、この「赤・黄・緑ピーマン」ばかりではない。日本でも売り場が変わると別の種類の「パプリカ」が登場する。香辛料の棚では「パプリカ」というのは辛味と赤味を加えるためのスパイスだ。やはり苦味、辛味は薄い。その内実はハンガリー語源の「パプリカ (Capsicum annuum)」すなわちピーマンの一種である。物理的には挽き唐辛子と見て良い、際立った赤が特徴。ハンガリー料理はこのパプリカ使いで有名だ。同じものが英名（特に米国）では品種同定のために Bell pepper と呼ばれている。さて、この Capsicum annuum のことを英語では普通に Black pepper ないし Chili pepper と呼んでいる。ロシア語では болгарский перец すなわち「ブルガリア胡椒（ボルガリスキ・ペレツ）」と呼ぶ。さあどうしよう？　このパプリカは「胡椒」なのか「唐辛子」なのか「ピーマン」なのか、それとも「チリ」なのだろうか。</p>
<p><strong>チリ参戦</strong></p>
<p>ところで「チリパウダー」というのは英語に綴ると二様あって、Chili powder と書くものと Chile powder と書くものがあり、厳密には別物だそうだ。すなわち chili はメキシコ料理チリコンカルネに使う混合香辛料でオレガノ、ディル、ニンニク、クミンなどが足された「ブレンデッド・スパイス」、chile の方は粉唐辛子単体のパウダーに使うとウィキペディアに断りがあった。だが、こんな使い分けを誰がしているというのだろうか？</p>
<p>チリコンカルネは横文字にすれば chili con carne、逐語的に訳せば「唐辛子 with 肉」ということで、やはり主役は唐辛子。唐辛子は南米かメキシコあたりが原産だと言われているのでこちらが本場か。ちなみに唐辛子といえば「唐の辛子」ということで、何となく中国が本場のように錯覚しているし、大韓民国のキムチに見るように大陸が本場という気がするものだが、実際に大陸に唐辛子が伝わったのは明代末期、日本経由である可能性が高く、唐辛子はその伝では日本由来辛子とでも言った方が実情に即するかもしれない。</p>
<p><strong>和辛子は洋辛子</strong></p>
<p>一方で和辛子は中央アジア原産カラシナ (Brassica juncea) の種に由来するもので、この種（たね）の酢漬けは「粒マスタード」として十三世紀にはヨーロッパに当たり前に知られている。「マスタード」の語源は古フランス語の mustard すなわち遡ってラテン語 mustus ardens「燃えるようなムスト」。ムストとは葡萄ジュースのワインになる一歩手前の状態のことだ。マスタードと言えばフランスはディジョンの白ワインでつくる粒マスタードが有名だが、これがマスタードのもともとの名前の起源に通じている訳だ。カラシナの種を挽いたペースト状の「辛いマスタード＝和辛子」はウィキペディアの英語ページ (mustard) の説明によればもとはイギリス式マスタードと呼ばれており、こうした辛子は四、五世紀のローマにレシピを見いだせると言う。これをローマがガリアに輸出したというのだ。</p>
<p>すると何たる混乱か。「和辛子」は古代からヨーロッパに知られていた「洋辛子」であり、「唐辛子」は南蛮から日本を経由して大陸に伝わった、むしろ「和辛子」であり、どこかで交差して名称が入れ違っている。そればかりか洋の東西を問わず、時に胡椒とかピーマンとかチリとかいった、胡椒系、獅子唐系の用語法とそれぞれ闊達に混線を繰り返しているということになる。</p>
<p><strong>中華四千年、さすがの料理命名</strong></p>
<p>海老チリソースは四川料理なら「乾焼蝦仁（カンシャオシャーレン）」、こちらはエビチリとは言いながら、チリペッパーというよりは豆板醤（トーバンジャン）を用いる。豆板醤は言わずと知れた四川の辛味で、実はその主材料は空豆。目立っている唐辛子の部分は本来は脇役だったらしく、辛くない豆板醤というものも理論的にはありうる。唐辛子を入れたものは特に「豆瓣辣醬（トウバンラージャン）」と呼んでいたのである。辣油（ラーユ）の「ラー」が一味唐辛子の添加を表している（これ、いかにも辛そうな字ですね）。</p>
<p>こうして各国の「胡椒・唐辛子・ピーマン」などの名称の混乱を見てくると、中華料理の名前のつけ方の体系性には恐れ入る。中華料理の料理名は材料と調理法を正確に予言しているものが殆どで、料理名がそのまま基本的なレシピとなっているぐらいだ。やはり中華四千年か。食いしん坊はどうしたって中国に足を向けて寝られるものではない。これに比べると日本の料理名はまったく混乱していて、たとえば「たたき」なんて言うのは結局どうすることなのか実態が未だによく判らない。鯵のたたきも鰹の土佐造りも牛たたきも素人料理に筆者はよく作るのだが、どこに共通点があるだろうか。鯵といえば、あと小鯵の南蛮漬けとか鴨南蛮とか言うときの「〜南蛮」というのも、結局なんのことを言っているのか判明でない。こんな例ばかりだ。</p>
<p>そこへ行くと中華。たとえば青椒肉絲（チンジャオロウスー）などは青椒、すなわち日本に言う緑の小ぶりのピーマンを使うことが明示されている。もともと中国語では、日本に言うパプリカを菜椒として、さらには日本に言う唐辛子を甜椒として、それぞれ青椒と明確に区別する一方で、植物学的に同ジャンルであることもまた明示されている。和辛子の原料カラシナは芥菜、一名に辣油菜、これも明確。</p>
<p>最後に胡椒についてウィキペディアの中国版を参照してみたら当該項目の冒頭にこうある：</p>
<blockquote><p>有數種完全不相同的植物與胡椒的名稱有所關聯；大部份被用在食物中，讓舌頭上有化學的胡椒鹼或辣椒辣素所導致的&#8221;辛辣&#8221;感覺。</p></blockquote>
<p>いわく「植物学的にはまったく別物のいろいろな種があるが、胡椒と名指されるものには大体おおまかな連関があって、すなわち食べ物に使われたところ舌の上に有機化合物ピペリン（胡椒鹼）やカプサイシン（辣椒素）の作用があって『辛い』という感覚を齎すもののことである」。</p>
<p>何たる明快。</p>
<p><strong>結局、辛子、唐辛子、胡椒とは何なのか</strong></p>
<p>胡椒、辛子、唐辛子の区別は至るところで混乱を見せていた。コショウの実が「胡椒」、カラシナの種が「和辛子」、トウガラシ属 (capsicum) の実が「唐辛子」といった、植物学ベースの区別では解決がつかない。その全てに文化的な反例を挙げることが出来る。しかもみたび繰り返せば、これは洋の東西を問わない。</p>
<p>だが中華版ウィキペディアの説明に端なくも表れているように、これらの名前は何か特定の植物種に充てられたものでも、またそれに由来する産物に充てられたものでも、厳密に言えば、なかったのである。これらの名前は「これなんか『辛い』よね」という感覚に充てた名前だった。与えられる漠然とした印象から、大ざっぱにひと括りにしているわけで、これでは香辛料輸出入のあちらこちらで名前の出し入れが混線するのも道理である。</p>
<p>胡椒、辣椒、辣油菜、Pepper, Pfeffer, Piment, Горчица, Poivre, Паприка, Poiveron, Paprika, Mustard, Перец。コショウ、カラシナ、トウガラシ。それはもともと、或る特定の植物種の名ではなく、或る特定の調味料の名でもなく、ただ「なんか辛い」という印象につけられた名前だったのだ。</p>
<p>最後に何かぴりっと胡椒の利いた決めぜりふで一文を閉じたかったが、何も思いつかなかったのでこれまで。</p>
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		<title>具体の科学１「皮」をフランス語で何と言うか</title>
		<link>http://marginaliae.wordpress.com/2011/11/27/%e5%85%b7%e4%bd%93%e3%81%ae%e7%a7%91%e5%ad%a6%ef%bc%91%e3%80%8c%e7%9a%ae%e3%80%8d%e3%82%92%e3%83%95%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%b9%e8%aa%9e%e3%81%a7%e4%bd%95%e3%81%a8%e8%a8%80%e3%81%86%e3%81%8b/</link>
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		<pubDate>Sun, 27 Nov 2011 16:47:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>theuthe</dc:creator>
				<category><![CDATA[français]]></category>
		<category><![CDATA[具体の科学]]></category>

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		<description><![CDATA[具体の科学 かつてクロード・レヴィ＝ストロースが『野生の思考』の冒頭で「具体の科学」というものについて触れていた。 悪名高き「原始心性」論を批判する文脈のなかでの話である。レヴィ＝ストロース以前（構造主義人類学以前）にも、モースやマリノフスキーによって、旧来の文化人類学にいわゆる「原始心性 (mentalité primitive)」なる観念は公然と否定されていた。 「原始心性」とは要するに「原始的なものの考え方」のことで、事実上は蔑称に等しい。たとえばこういうものだ——いわゆる「未開社会」のなかに、「松、梅、桜」といった個別の樹種を指す言葉はちゃんとあるのに、総称的に「樹木」を表す言葉を欠いた社会があるという。「木」という漠然とした言葉、上位概念がない！ 旧来の人類学者（よく引き合いに出されるのはレヴィ＝ブリュル）は、こうした重要と見える「語彙の不在」を「抽象観念の欠如」と結びつけて、当該の未開社会は人の抽象能力、概念化、科学的思考の能力について欠くところがある、さらに言えば劣ったところがある、といったように結論しがちだった。未開社会民族の知性を「原始心性」と呼んで矮小化して捉えることがあったのである。「未開社会の人々って『原始的』で、よく判らないよね」と、言ってしまえば、一段低く見ていた。 そうした記述主義の人類学は、ネィティブ・アメリカンのポトラッチ、パプアニューギニアのクラ（クラ交易）などという、一見非合理に見える「未開民族の贈与合戦」を克明に記述しながら「なんだかこの人たち変なことをやっているなあ、よく判らないよね」と見ていた。ところがそこに、モースの『贈与論』、マリノフスキーの『西太平洋の航海者』などの記念碑的著述が現れて、これらの「奇妙な贈与合戦、複雑な交換合戦」が非合理どころか、きわめて合理的な動機に裏打ちされた有効な社会制度である、という議論が出てきたのであった。地域間・職能集団間の富の再分配に役立っている、遠隔共同体との価値の共有と確認を促す……　さまざまな副次的交易が文化・文物を社会ネットワーク上に行き渡らせていく……　なんとも優れた制度ではないか、と。原始的どころかきわめて洗練されたアイディアではないか、というのである。 こうなると「抽象観念の欠如」と見えた、上位概念がしばしば存在しない言語慣習にも、それなりの訳があって、それなりの役割が期待されていて、現地で見れば合理的で洗練されたシステムをなしているのかも知れないと考えたくなってくるのも道理である。そこでレヴィ＝ストロースが説いたのが「具体の科学」なのである。西欧中心主義的には科学は抽象に傾くものであるが、ここに具体に分け入っていくというタイプの別種の「科学的思考」があるのではないか、自民族中心の偏見を捨てて、そうした「科学的姿勢」を適切に評価して理解することは可能だし、必要なのではないか、という主張である。 フランス語の具体の科学 そうは言いながらも、文化先進国をもって任ずるフランスのエリートの言葉である。レヴィ＝ストロース御大にも、どうかすると抽象化というモーメントに価値を置く傾きはあり、事実として「親族の基本構造」の分析も、「神話論理」の分析も、中軸になっているのは大胆な還元主義である。具体の科学もまた、抽象的思考によって還元を経て「理解」され、「評価」されていくことになる。 ここで20年も前の話であるが、卒業論文でレヴィ＝ストロースの思考スタイルを扱って、ひいこら言いながら未訳本を訳していた私には一つの大きな疑いが持ち上がったのであった。上位概念を欠いた「具体の科学」って、フランス語の振る舞いの実態でもあるのではないか、と。 フランス語は西欧言語の中でも著しく多義語が多い言語の一つである。一つひとつの語彙が、論脈、文脈で使い回されて、多様な意味を担っていることが多い。定量的には、フランス語の辞書は同規模の英語やドイツ語の辞書と比べると、第一に収録語彙数が少なめで、第二にエントリー当りの紙幅が大きい。一つひとつの言葉へのチャージが高いのである。したがって普通に考えると、フランス語は「抽象性の高い」上位語の使い回しが奨励されている、すぐれて抽象重視の言語であるということになりそうである。 しかしどうだろうか。フランス語の読解と作文にひいひい言っていた（今も言っている）私からすると、フランス語にはどうしてこうも「上位語」が欠けていることが多いのだろうかと困惑することが案外と多いのである。フランス人が「具体の科学」を行っているように、さらに言えば「原始心性（笑）」の持ち主であるかのようにすら見えることがある。 そこで日本語母語使用者としての偏見を交えつつ、フランス語の「上位概念の欠如」に困惑する場面を一つずつコレクションし始めた。一カテゴリーを設けて、そのお蔵出しをしていこうと思う。初回のネタは…… 今日のネタ：皮 フランス語には上位概念としての「皮」が無い。人間の皮、牛の皮、毛皮、樹皮、チーズの皮、ジャガ芋の皮、ミカンの皮……　どれも要するに表面を覆うもの、日本語では全て「皮」である。ところが上の例にあげた語はフランス語に翻訳すると全て異なった語になってしまうのだ…… ミカンの皮 (zeste) とメロンの皮 (écorce) と林檎の皮 (épicarpe) は全て別！　ただし左記 épicarpe は常用語ではない、植物学の専門用語。ジャガ芋の皮 (périderme) も、そのものをずばり指す言葉は植物学用語にしかない。以下の表はフランス語のコラムでソートしてある。 脳みその皮 cortex 大脳皮質 副腎皮質 corticosurrénale &#60; cortex スイスチーズの外皮 couenne 発音はクワン。 豚の皮 couenne 料理用語。工芸上の皮革ではなく特にハムの外側にある部分。 チーズの皮 croûte パンの皮 croûte パンの「耳」もこれ。 牛馬の生皮 croûte 鞣す前。 オランダチーズの赤い皮 croûte rouge 表面組織というよりコーティングの部分。 皮革 cuir [...]<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=marginaliae.wordpress.com&amp;blog=14250802&amp;post=260&amp;subd=marginaliae&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h2><strong>具体の科学</strong></h2>
<p>かつてクロード・レヴィ＝ストロースが『野生の思考』の冒頭で「具体の科学」というものについて触れていた。</p>
<p>悪名高き「原始心性」論を批判する文脈のなかでの話である。レヴィ＝ストロース以前（構造主義人類学以前）にも、モースやマリノフスキーによって、旧来の文化人類学にいわゆる「原始心性 (mentalité primitive)」なる観念は公然と否定されていた。</p>
<p>「原始心性」とは要するに「原始的なものの考え方」のことで、事実上は蔑称に等しい。たとえばこういうものだ——いわゆる「未開社会」のなかに、「松、梅、桜」といった個別の樹種を指す言葉はちゃんとあるのに、総称的に「樹木」を表す言葉を欠いた社会があるという。「木」という漠然とした言葉、上位概念がない！<span id="more-260"></span></p>
<p>旧来の人類学者（よく引き合いに出されるのはレヴィ＝ブリュル）は、こうした重要と見える「語彙の不在」を「抽象観念の欠如」と結びつけて、当該の未開社会は人の抽象能力、概念化、科学的思考の能力について欠くところがある、さらに言えば劣ったところがある、といったように結論しがちだった。未開社会民族の知性を「原始心性」と呼んで矮小化して捉えることがあったのである。「未開社会の人々って『原始的』で、よく判らないよね」と、言ってしまえば、一段低く見ていた。</p>
<p>そうした記述主義の人類学は、ネィティブ・アメリカンの<a href="http://en.wikipedia.org/wiki/Potlatch">ポトラッチ</a>、パプアニューギニアの<a href="http://en.wikipedia.org/wiki/Kula_ring">クラ（クラ交易）</a>などという、一見非合理に見える「未開民族の贈与合戦」を克明に記述しながら「なんだかこの人たち変なことをやっているなあ、よく判らないよね」と見ていた。ところがそこに、モースの『贈与論』、マリノフスキーの『西太平洋の航海者』などの記念碑的著述が現れて、これらの「奇妙な贈与合戦、複雑な交換合戦」が非合理どころか、きわめて合理的な動機に裏打ちされた有効な社会制度である、という議論が出てきたのであった。地域間・職能集団間の富の再分配に役立っている、遠隔共同体との価値の共有と確認を促す……　さまざまな副次的交易が文化・文物を社会ネットワーク上に行き渡らせていく……　なんとも優れた制度ではないか、と。原始的どころかきわめて洗練されたアイディアではないか、というのである。</p>
<p>こうなると「抽象観念の欠如」と見えた、上位概念がしばしば存在しない言語慣習にも、それなりの訳があって、それなりの役割が期待されていて、現地で見れば合理的で洗練されたシステムをなしているのかも知れないと考えたくなってくるのも道理である。そこでレヴィ＝ストロースが説いたのが「具体の科学」なのである。西欧中心主義的には科学は抽象に傾くものであるが、ここに具体に分け入っていくというタイプの別種の「科学的思考」があるのではないか、自民族中心の偏見を捨てて、そうした「科学的姿勢」を適切に評価して理解することは可能だし、必要なのではないか、という主張である。</p>
<h2><strong>フランス語の具体の科学</strong></h2>
<p>そうは言いながらも、文化先進国をもって任ずるフランスのエリートの言葉である。レヴィ＝ストロース御大にも、どうかすると抽象化というモーメントに価値を置く傾きはあり、事実として「親族の基本構造」の分析も、「神話論理」の分析も、中軸になっているのは大胆な還元主義である。具体の科学もまた、抽象的思考によって還元を経て「理解」され、「評価」されていくことになる。</p>
<p>ここで20年も前の話であるが、卒業論文でレヴィ＝ストロースの思考スタイルを扱って、ひいこら言いながら未訳本を訳していた私には一つの大きな疑いが持ち上がったのであった。上位概念を欠いた「具体の科学」って、フランス語の振る舞いの実態でもあるのではないか、と。</p>
<p>フランス語は西欧言語の中でも著しく多義語が多い言語の一つである。一つひとつの語彙が、論脈、文脈で使い回されて、多様な意味を担っていることが多い。定量的には、フランス語の辞書は同規模の英語やドイツ語の辞書と比べると、第一に収録語彙数が少なめで、第二にエントリー当りの紙幅が大きい。一つひとつの言葉へのチャージが高いのである。したがって普通に考えると、フランス語は「抽象性の高い」上位語の使い回しが奨励されている、すぐれて抽象重視の言語であるということになりそうである。</p>
<p>しかしどうだろうか。フランス語の読解と作文にひいひい言っていた（今も言っている）私からすると、フランス語にはどうしてこうも「上位語」が欠けていることが多いのだろうかと困惑することが案外と多いのである。フランス人が「具体の科学」を行っているように、さらに言えば「原始心性（笑）」の持ち主であるかのようにすら見えることがある。</p>
<p>そこで日本語母語使用者としての偏見を交えつつ、フランス語の「上位概念の欠如」に困惑する場面を一つずつコレクションし始めた。一カテゴリーを設けて、そのお蔵出しをしていこうと思う。初回のネタは……</p>
<h2><strong>今日のネタ：皮</strong></h2>
<p>フランス語には上位概念としての「皮」が無い。人間の皮、牛の皮、毛皮、樹皮、チーズの皮、ジャガ芋の皮、ミカンの皮……　どれも要するに表面を覆うもの、日本語では全て「皮」である。ところが上の例にあげた語はフランス語に翻訳すると全て異なった語になってしまうのだ……</p>
<p>ミカンの皮 (zeste) とメロンの皮 (écorce) と林檎の皮 (épicarpe) は全て別！　ただし左記 épicarpe は常用語ではない、植物学の専門用語。ジャガ芋の皮 (périderme) も、そのものをずばり指す言葉は植物学用語にしかない。以下の表はフランス語のコラムでソートしてある。</p>
<table cellspacing="0" cellpadding="4">
<tbody>
<tr>
<td valign="top" width="30%">脳みその皮</td>
<td valign="top" width="30%">cortex</td>
<td valign="top">大脳皮質</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">副腎皮質</td>
<td valign="top">corticosurrénale<br />
&lt; cortex</td>
<td valign="top"></td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">スイスチーズの外皮</td>
<td valign="top">couenne</td>
<td valign="top">発音はクワン。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">豚の皮</td>
<td valign="top">couenne</td>
<td valign="top">料理用語。工芸上の皮革ではなく特にハムの外側にある部分。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">チーズの皮</td>
<td valign="top">croûte</td>
<td valign="top"></td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">パンの皮</td>
<td valign="top">croûte</td>
<td valign="top">パンの「耳」もこれ。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">牛馬の生皮</td>
<td valign="top">croûte</td>
<td valign="top">鞣す前。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">オランダチーズの赤い皮</td>
<td valign="top">croûte rouge</td>
<td valign="top">表面組織というよりコーティングの部分。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">皮革</td>
<td valign="top">cuir</td>
<td valign="top">「革」。革製品に用いる。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">頭皮</td>
<td valign="top">cuir chevelu</td>
<td valign="top">人の皮を cuir という例については他に entre cuir et chair 「皮膚の下に」すなわち「ひそかに」という熟語がある。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">カバの皮</td>
<td valign="top">cuir du rhinocéros</td>
<td valign="top">なぜか「犀の皮」。cuir は普通加工された「皮革」の意味であるが、河馬や象の皮について言うことがある。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">樹皮</td>
<td valign="top">écorce</td>
<td valign="top">英語で bark に相当。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">メロンの皮</td>
<td valign="top">écorce</td>
<td valign="top">écorce は堅いという含意あり。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">果物の皮</td>
<td valign="top">endocarpe</td>
<td valign="top">内果皮。むしろ種の周りの固くなったところ.</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">心の皮</td>
<td valign="top">enveloppe</td>
<td valign="top">心根を隠した取り繕い。うわべ。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">果物の皮</td>
<td valign="top">épicarpe</td>
<td valign="top">外果皮。植物学用語。日本語で言う「果物の皮」一般は、このレベルまで抽象度を上げてようやく一致する。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">犬猫の毛皮</td>
<td valign="top">fourrure</td>
<td valign="top"></td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">卵の薄皮</td>
<td valign="top">membrane</td>
<td valign="top">「殻」は coque</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">果物の皮</td>
<td valign="top">mésocarpe</td>
<td valign="top">中果皮。植物学用語。林檎や桃で言うと食べる部分で、普通はここを「皮」とは考えないだろう。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">蛇の皮</td>
<td valign="top">mue</td>
<td valign="top">ぬけがら。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">兎の皮</td>
<td valign="top">peau</td>
<td valign="top"></td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">人の皮</td>
<td valign="top">peau</td>
<td valign="top">一番普通の「皮」。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">猫や犬の皮膚</td>
<td valign="top">peau</td>
<td valign="top">毛皮は上記 fourrure。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">わに皮</td>
<td valign="top">peau d’alligator</td>
<td valign="top"></td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">羊の皮</td>
<td valign="top">peau d’âne</td>
<td valign="top">羊皮紙のことだがなぜか「驢馬の皮」と言う。免状、とくにバカロレア資格のことをこう言う。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">果物の皮</td>
<td valign="top">péricarpe</td>
<td valign="top">果皮。植物学用語。内・中・外果皮の全体。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">草の茎の皮</td>
<td valign="top">périderme</td>
<td valign="top">周皮。植物学用語。ジャガ芋の皮はこれ（地下茎なので）。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">ちんこの皮</td>
<td valign="top">prépuce</td>
<td valign="top">包茎手術、割礼の対象。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">見かけ</td>
<td valign="top">surface</td>
<td valign="top">表層的な外面。上っ面。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">栗の渋皮</td>
<td valign="top">tan</td>
<td valign="top"></td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">栗の鬼皮</td>
<td valign="top">tégument</td>
<td valign="top">植物学用語。普通には coque。ただし coque を訳すなら「殻」と言うべきだろうが、日本語では鬼皮と称するのでこの項に押し込んだ。ちなみに「いが」は bogue と言う。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">柑橘類の皮</td>
<td valign="top">zeste</td>
<td valign="top"></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h2>ついでに皮ではなく、「殻」だとどうなるのか。</h2>
<table cellspacing="0" cellpadding="4">
<tbody>
<tr>
<td valign="top">亀甲</td>
<td valign="top">carapace</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">エビカニの殻</td>
<td valign="top">carapace</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">卵の殻</td>
<td valign="top">coque; coquille</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">貝の殻</td>
<td valign="top">coquille</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">牡蛎の殻</td>
<td valign="top">coque (古い）; coquille</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">クルミの殻</td>
<td valign="top">coque, coquille</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">地殻</td>
<td valign="top">lithosphère ;<br />
croûte terrestre ;<br />
écorce terrestre</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h2><strong>「剥く」となったらなんでもいっしょ</strong></h2>
<p>ミカンの皮とメロンの皮と林檎の皮は全部別と先に触れた。この中で「林檎の皮 (épicarpe)」は常用ではないとした。柑橘類の皮 (zeste) が常用語なのは、レモンの皮とかミカンの皮はレシピにもよく出てくる「特別な用途を持った部位」であるから理解出来る。それでは常用レベルでは「林檎の皮」のことは何と言っているのか……</p>
<p>多くの場合、何も言わない（！）のである。どうして何も言わないでいられるかというと「皮」を内在化した動詞があるので、林檎の皮に言及する時はその動詞でほとんど用が足りてしまうのだった。その動詞とはすなわち：éplucher</p>
<blockquote><p>éplucher de la salade　サラダ菜の<strong>傷んだ部分</strong>を取る<br />
éplucher des haricots verts　さやインゲンの<strong>すじ</strong>を取る<br />
éplucher des pois　豆を<strong>さや</strong>から出す<br />
éplucher une pomme　リンゴの<strong>皮</strong>をむく<br />
éplucher des crevettes　小エビの<strong>殻</strong>をむく</p></blockquote>
<p>ロワイヤル仏和辞典から引用した。強調は引用者。ご覧の通り、原文フランス語の文例には「皮」に当たる単語はない。それどころか、「痛んだ部分」「すじ」「さや」「皮」「殻」の全てに直接的な言及がないのである。「皮」ばかりか「痛んだ部分」「すじ」「さや」「殻」の全てが éplucher にビルトインされていることになる。動詞 éplucher は要するに「食べない部分を取り去って可食部分だけにする」という意味（！）の単語で、相手が「筋」だろうが「鞘」だろうが「皮」だろうが「殻」だろうが、はては「腐った部分」だろうがお構いなしである。</p>
<p>百歩譲って「皮をむく」と「殻をむく」は同じ「剥く」で同じ扱いであっても理解出来るような気もする。そもそも殻と皮は、栗の「殻」を日本語では栗の「皮（鬼皮）」と称するように、日本語フランス語間でもしばしば互換の場合があるわけだ。だが「インゲンのすじ」をどう言うのか言葉に詰まって、捜しあぐねた結果が「どうとも言わない」だったという衝撃は大きかった。上で「皮」をめぐってさんざん「フランス語の具体の科学」の局面を見てきたわけだが、しかし逆に éplucher の、かかる抽象性の高さはどうしたことだろう。日本語母語話者の偏見で言うと、どれも全く「違うこと」のように思えるのだが。</p>
<p>éplucher は peluche「糸くず」に連なる単語で、ピカルディー方言では épluker。もともとの意味は「夾雑物を取除く」といったほどの意味。</p>
<blockquote><p>éplucher un champ　畑の雑草を取る<br />
éplucher du drap　ラシャの毛くずを除く</p></blockquote>
<p>この最後の例が原義であり、19世紀リトレではこうした用法を第一義に上げてあった。</p>
<h2><strong>具体の科学、抽象の科学</strong></h2>
<p>この問題に気がついたのは海老を食べながら、甲殻類の「殻を剥く」をどう言うのか聞いてみたのだが、かなり学のあるフランス人がどうも歯切れのいい返事をくれないということに気付いたことから始まったのだった。</p>
<blockquote><p>「殻を剥くってどういうの」と私。<br />
「éplucher でいいんだよ」とR嬢。<br />
「林檎を剥くのも éplucher だよね。それでいいのか。でも海老の殻自体はなんて言うの？」<br />
「えっ？　殻？　carapace かな……」<br />
「じゃあ éplucher des carapaces でいいのかな」<br />
「えっ？　違うよ、剥くのは海老だよ」<br />
「えっ？　じゃあ殻はどうするの？」<br />
「えっ？　捨てるよ」</p>
<p>&#8211; Comment dit-on ça en français, pour &#8220;enlever ce truc&#8221;.<br />
&#8211; On les EPLUCHE.<br />
&#8211; On épluche des pommes aussi, ça marche? Mais comment dire ce truc même&#8230; ce &#8220;shell&#8221;.<br />
&#8211; Quoi? &#8220;Shell&#8221;? Eh ben, on dit &#8220;carapace&#8221;.<br />
&#8211; Alors, on peut dire &#8220;éplucher des carapaces&#8221;, bon.<br />
&#8211; Quoi? C&#8217;est pas ça, c&#8217;est des crevettes que l&#8217;on épluche.<br />
&#8211; Quoi? Alors comment faire pour des carapaces?<br />
&#8211; Quoi? On les rejette!</p></blockquote>
<p>全然、要領を得ないのであった。</p>
<p>そして「インゲンの筋取り問題」で混迷の度は深まったのであった。</p>
<p>「皮」と言えばすべて一括出来そうなことがらを、異様なまでに細かく呼び分けているフランス語の姿は、ラテンアメリカ少数部族に見られる「具体の科学」よろしく、我々が分けていないことを詳細に分割している。もし在ればさぞや便利そうな上位概念（「皮」）に一顧だにしない。</p>
<p>そうかと思えば、全く別のことと思えるような話までを一括して、éplucher の抽象性が一手に引き取っている。面白いことに、日本語の表現では「捨てる部分」に注目しているところ、フランス語では「食べる部分」にしか注目していないのである。そして「捨てる部分」の方にはいちいち言及したりしないのである。レヴィ＝ブリュルだったら、これをして「原始心性」と定めし呼んだのではないか。</p>
<p>フランス語にはこうした相異なるモーメントの共存がほかにも幾つも確認される。フランス語の「具体の科学」は他にもある。続く。</p>
<div></div>
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		<item>
		<title>音の増減、転倒をめぐる修辞用語</title>
		<link>http://marginaliae.wordpress.com/2011/10/09/%e9%9f%b3%e3%81%ae%e5%a2%97%e6%b8%9b%e3%80%81%e8%bb%a2%e5%80%92%e3%82%92%e3%82%81%e3%81%90%e3%82%8b%e4%bf%ae%e8%be%9e%e7%94%a8%e8%aa%9e/</link>
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		<pubDate>Sun, 09 Oct 2011 20:14:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>theuthe</dc:creator>
				<category><![CDATA[01 recherches]]></category>
		<category><![CDATA[04 les langues]]></category>
		<category><![CDATA[English]]></category>
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		<description><![CDATA[語中の音が増えたり減ったり、入れ替わったりすることを修辞学・言語学の用語としては何というか。 普通はレトリック用語辞典などに全部まとめられているのでそちらを見れば足りるのだが、こういうものはアルファベティカルに並べるよりは、事項別に整理した方が良い。 それで以下のように整理した。表中ではフランス語の修辞用語で表記、語源のギリシャ語を付したが、そもそも各国語にたいした異同はない。（「語末音」は「語尾音」とも） 語頭 語中 語末 音の添加 語頭音添加 prothèse πρόσθεσις 語中音添加 épenthèse ἐπένθεσις 語末音添加 paragoge παραγωγή 音の喪失 語頭音喪失 aphérèse ἀφαίρεσις 語中音喪失 syncope συγκοπή 語末音喪失 apocope ἀποκοπή 音位の転倒 音位転倒 métathèse μετάθεσις 形式的にはほぼ同じ現象を「一語の中での位置」によって言い分ける際に、相互に用語の統一が行われていないという点が興味ぶかい。 「添加」に対しては -θεσις（仏：-thèse 英：-thesis）とい語尾が目立つが τίθημι「置く」の名詞化だからこれは当然。かたや「喪失」については -κοπή（英仏：-cope）、これも κόπτω「打つ（切る）」の名詞化だからこれも当然。paragoge と aphérèse において語構成を変えた理由は何だろうか。つまり *ἀπόθεσις (apothèse) とか *προσκοπή (procope) とかいった形に訴えなかった意味はあるのか。παραγωγή は本来は「語尾を足して派生語を生成すること」、ἀφαίρεσις はフランス語文法にいわゆる「エリズィオン」のことであろうから、いずれも文法用語としてあらかじめ定着していたものがあって、それが修辞用語に転用されたのであろう。 ［上の * 付きの単語は「実際の文証がない想定語形」を意味するが、今試みに google で検索をかけてみたらヒットが結構ある。適当に作ったのに］ ところで syncope [...]<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=marginaliae.wordpress.com&amp;blog=14250802&amp;post=246&amp;subd=marginaliae&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>語中の音が増えたり減ったり、入れ替わったりすることを修辞学・言語学の用語としては何というか。</p>
<p>普通はレトリック用語辞典などに全部まとめられているのでそちらを見れば足りるのだが、こういうものはアルファベティカルに並べるよりは、事項別に整理した方が良い。</p>
<p><span id="more-246"></span>それで以下のように整理した。表中ではフランス語の修辞用語で表記、語源のギリシャ語を付したが、そもそも各国語にたいした異同はない。（「語末音」は「語尾音」とも）</p>
<table border cellspacing="1" cellpadding="5">
<tbody>
<tr>
<td valign="middle"></td>
<td valign="middle">語頭</td>
<td valign="middle">語中</td>
<td valign="middle">語末</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">音の添加</td>
<td valign="middle">語頭音添加</p>
<p>prothèse</p>
<p>πρόσθεσις</td>
<td valign="middle">語中音添加</p>
<p>épenthèse</p>
<p>ἐπένθεσις</td>
<td valign="middle">語末音添加</p>
<p>paragoge</p>
<p>παραγωγή</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">音の喪失</td>
<td valign="middle">語頭音喪失</p>
<p>aphérèse</p>
<p>ἀφαίρεσις</td>
<td valign="middle">語中音喪失</p>
<p>syncope</p>
<p>συγκοπή</td>
<td valign="middle">語末音喪失</p>
<p>apocope</p>
<p>ἀποκοπή</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">音位の転倒</td>
<td valign="middle"></td>
<td valign="middle">音位転倒</p>
<p>métathèse</p>
<p>μετάθεσις</td>
<td valign="middle"></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>形式的にはほぼ同じ現象を「一語の中での位置」によって言い分ける際に、相互に用語の統一が行われていないという点が興味ぶかい。</p>
<p>「添加」に対しては -θεσις（仏：-thèse 英：-thesis）とい語尾が目立つが τίθημι「置く」の名詞化だからこれは当然。かたや「喪失」については -κοπή（英仏：-cope）、これも κόπτω「打つ（切る）」の名詞化だからこれも当然。paragoge と aphérèse において語構成を変えた理由は何だろうか。つまり *ἀπόθεσις (apothèse) とか *προσκοπή (procope) とかいった形に訴えなかった意味はあるのか。παραγωγή は本来は「語尾を足して派生語を生成すること」、ἀφαίρεσις はフランス語文法にいわゆる「エリズィオン」のことであろうから、いずれも文法用語としてあらかじめ定着していたものがあって、それが修辞用語に転用されたのであろう。</p>
<p>［上の * 付きの単語は「実際の文証がない想定語形」を意味するが、今試みに google で検索をかけてみたらヒットが結構ある。適当に作ったのに］</p>
<p>ところで syncope の語源について、ネット上に見られる記述によれがあるので指摘しておく。syncope を検索してみると、 wikipedia/wiktionnaire と Google dictionary を中心に、語源として συγχοπὴ とか συνκοπὴ という語形に差し向けていることがわかる。語末のアクセント記号に注目。こうした語形がバリエーションとしてはどこかに出てくるのかもしれないが、一見この形は奇妙な気がする。</p>
<p>今手元にギリシャ語の辞書はないがリデル・スコット・オンラインでは <a href="http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aalphabetic+letter%3D*s111%3Aentry+group%3D99%3Aentry%3Dsugkoph%2F">συγκοπ-ή</a> となっている（Henry George Liddell, Robert Scott, <em>A Greek-English Lexicon</em> : s.v.)<br />
ガフィオ羅仏でも συγκοπή が語源と指定されている。つまり私が信用する辞書（オンライン含む）には συγχοπὴ とか συνκοπὴ という語形を見ない。加えて上に触れた συγχοπὴ とか συνκοπὴ という語形を掲載した記事はいずれもロマナイズとして sygkopè と読んでおり、この読みもやや怪しい。wikipedia / Google のクローンが誤情報を瀰漫させている可能性がある。どちらの「語」を検索してみても、上で私がいい加減にでっち上げた *ἀπόθεσις や*προσκοπή ほどのヒットも無いところを見ると、συγχοπὴ とσυνκοπὴ は、ウィキペディア（およびそのクローン）にしか存在しない単語なのかもしれない。後者 συνκοπὴ など 38 例（2011年09月調べ）しかネット上にないのだ。しかもその大半は辞典・事典の項目である……　辞書にしかない言葉……　ボルヘスが喜びそうだ。無責任なようだが、こうした誤情報には消えうせて欲しくない気もする。</p>
<p>例：</p>
<p>語頭音添加：</p>
<ul>
<li> ギリシャ語 σχολή &gt; ラテン語 schola &gt; 中世フランス語 <strong>e</strong>scole &gt; フランス語 <strong>é</strong>cole　［※フランス語では、語頭の /s/ が（見かけ上）脱落した代わりに /e/ となる例は大変多い］</li>
<li>ロシア &gt; 日本語：おろしあ［※語頭 r 音（和語に現れない）の忌避のための語頭音添加か？］</li>
<li>馬 /ma/ &gt; /mma/ &gt; 日本語：うま；梅 /*muei/ (?) &gt; /mme/ &gt; /ume/ &gt; 日本語　うめ（古語では「むめ」とも）［※語頭鼻音を母音の添加で補強したものか？］</li>
</ul>
<p>語中音添加：</p>
<ul>
<li>英語の複数形 s 付加の際に、語末音が「歯／歯茎摩擦音（ /s/ /z/ と同類の音）」の場合は<strong>母音字 e /i:/ を挿入して</strong> s は順行同化で有声化 : bush &gt; bushes [*bushs]</li>
<li>英語の複数形 ed 付加の際に、語末音が「歯茎／反り舌破裂音（/t/ /d/ と同類の音）」の場合は<strong>母音 /i/ を挿入して</strong> d は順行同化で有声化 : load &gt; loaded　［※上記二点は英語学に通じない筆者の共時的分析に過ぎない。通時的にはもっとデリケートな説明が必要になるはず］</li>
<li>観音（かん・おん） &gt; かんのん［※前部末尾の閉鎖音が「わたり音」となって残存する］</li>
<li>「るる・らるる」「れる・られる」の「ら」</li>
<li>「す・さす」「せる・させる」の「さ」</li>
</ul>
<p>語末音添加：</p>
<ul>
<li>ギリシャ語 Περγαμηνός &gt; ラテン語 pergamīna &gt; 古フランス語 parchemin &gt; 英語 parchmen<strong>t</strong></li>
<li>フランス語 ancien &gt; 英語 ancien<strong>t</strong></li>
<li>古フランス語 son &gt; 英語 soun<strong>d　［</strong>※英語には語末に子音を置く（特に /t/ /d/）という添加例が多い。スペイン語 sonido も同様か？<strong>］</strong></li>
<li>日本語：外来語の子音語尾に母音を添加する (strike &gt; [jap.] su-to-ra-i-ku) 例は多いが、これは語尾音添加と名付けることはできない。むしろアルファベットとアブギダの対立による現象であろう（日本語表記体系は子音終わりを想定しておらず、発音も同様）。</li>
<li>特に幼児語で、一音節語を支えるために同音一拍を足す例は語末添加にあたるか：葉 &gt; はっぱ；手 &gt; おてて；目 &gt; おめめ・めんめ</li>
<li>特に女房詞で、忌み語を一文字に省略した上で、同音１拍（以上）を足す例：さけ &gt; さ &gt; おささ；カツオ &gt; か &gt; おかか；香（漬物の意） &gt; こうこ</li>
<li>同じく一文字語について、関西方言で母音を伸ばして一モーラ添加する例：血 &gt; ちい；手 &gt; てえ</li>
</ul>
<p>語頭音喪失：</p>
<ul>
<li>ギリシャ語 <strong>e</strong>piskopos &gt; 俗ラテン語 <strong>e</strong>biscopu &gt; 英語 bishop</li>
<li>日本語 いばら &gt; ばら</li>
<li>いづれ &gt; どれ</li>
<li>いだく &gt; だく</li>
</ul>
<p>語中音喪失：</p>
<ul>
<li>ラテン語 ver<strong>e</strong>cundia &gt; フランス語 vergogne（恥）［※現代フランス語としては稀な語。sans vergogne「厚かましくも」という古い表現ぐらいでしか使わない］</li>
<li>格好（かっこう）いい &gt; かっこいい；</li>
</ul>
<p>語末音喪失：</p>
<ul>
<li>俗ラテン語 lupu<strong>m</strong> &gt; フランス語 loup（オオカミ）</li>
</ul>
<p>フランス語の単語では枚挙に暇がない。というよりもほとんどのフランス語主要語彙はラテン語のアポコープである。</p>
<ul>
<li>Télé, Radio, Prof, etc. ［※フランス語の例だが、世界的に同じことは引きも切らない。総じて、こうした音の増減転倒は話語では膨大なバリエーションを持つことになり、検討する際に問題の切り分けが難しい］</li>
</ul>
<p>音位転倒：</p>
<ul>
<li>asterisk &gt; 英語 asterix ;</li>
<li>新（あらた）し &gt; あたらしい</li>
<li>しだらない &gt; だらしない</li>
<li>舌鼓（したつづみ） &gt; したづつみ</li>
<li>山茶花（さんざか） &gt; さざんか</li>
</ul>
<p>補遺：</p>
<p>Length の /k/ は語中音添加か？</p>
<p>progressive 英和、epenthesis の項に例として「length 〔leŋkθ〕 の 〔k〕 など」とあるが、この記述は正確か？　単に long の /g/ が名詞化したときに遡行同化を起こしただけではないか？</p>
<p>補遺２：</p>
<p>「春雨（はるさめ）」の /s/ は語中音添加か？</p>
<p>日本語 wikipedia 当該項目 (http://ja.wikipedia.org/wiki/音挿入) では「春雨」を語中音添加の例としている：</p>
<blockquote><p>例えば、「はるさめ」/harusame/は「はる」/haru/と「あめ」/ame/の間に子音/s/が挿入されてできた語形である。</p></blockquote>
<p>おおいに疑わしい。この /s / の挿入には類例が多く、他ならぬ /s/ の添加が強く動機付けられている節がある。類例を挙げておく。</p>
<blockquote><p>あき‐さめ【秋雨】秋の季語</p>
<p>き‐さめ【樹雨】</p>
<p>きり-さめ【霧雨】</p>
<p>こ-さめ【小雨】</p>
<p>はや‐さめ【暴雨・速雨】</p>
<p>はる-さめ【春雨】</p>
<p>ひ‐さめ【大雨・甚雨】おおあめのこと。『武烈紀』に「大風大雨に避らず」</p>
<p>ひ‐さめ【氷雨】</p>
<p>むら‐さめ【群雨・叢雨・村雨】</p>
<p>やぶ‐さめ【藪雨】</p>
<p>よ‐さめ【夜雨】</p></blockquote>
<p>面白いことに、当該項目英語版では (http://en.wikipedia.org/wiki/Epenthesis) 「春雨」は語源要素が保持されただけである可能性を示唆している。</p>
<blockquote><p>A limited number of words in Japanese use epenthetic consonants to separate vowels, example of this is the word <em>harusame</em> (春雨, <em>spring</em> <em>rain</em>) which is a compound of <em>haru</em> and <em>ame</em> in which an /s/ is added to separate the final /u/ of <em>haru</em> and the initial /a/ of <em>ame</em>; note that this is a synchronic analysis (using current forms to analyze an irregularity). To give a diachronic (historical) analysis, since epenthetic consonants are not used regularly in modern Japanese, it is possible that this epenthetic /s/ is a hold over from Old Japanese. It is also possible that OJ /<em>ame2</em>/ was once pronounced */<em>same2</em>/, and the /s/ is not epenthetic but simply retained archaic pronunciation. Another example is <em>kosame</em> (小雨, <em>light</em> <em>rain</em>).</p></blockquote>
<p>別の可能性として指摘されただけだが、*/<em>same2</em>/「さめ（エ乙）」を語源とする議論がヨリ説得的であるように思われる。少なくとも日本語ウィキペディアの記述では、/s/ の挿入がなぜ /s/ でなくてはならないのかという問いに答えられない。つまり「はるらめ」とか「ひはめ」とか「ひまめ」ではいけないのか？　（前後の子音をもう一度引っ張ってくるのはよくある語構成である）</p>
<p>もっとも「はるらめ」では感じが出ない。「なあに濡れていこう」という気にはなるまい。なんだかぬるぬるしてしまいそう。濡れちゃらめ、というところだろうか。しまった筆が滑った。</p>
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	</item>
		<item>
		<title>ある「落ちこぼれ」の弁解</title>
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		<pubDate>Mon, 26 Sep 2011 15:50:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>theuthe</dc:creator>
				<category><![CDATA[01 recherches]]></category>
		<category><![CDATA[03 absurdités]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://marginaliae.wordpress.com/?p=200</guid>
		<description><![CDATA[かつて英文学者の安藤文人（ふみと）先生の随筆に膝を打ったことがある。「ある『落ちこぼれ』の弁解」と題するエッセイで、ご自分が数学が苦手であったことを自虐的、諧謔的に回想した一文であった。敬称に先生としたのは実際にお世話になったことがあるから。以下は簡便のため「氏」とさせていただく。 　今でも数学は勿論わからないし、時折夢の中で悩まされる以外は数学のことを思い出しもしないが、近頃になってようやくわたしに欠けていた能力が実際は何であったのかがわかってきたような気がする。簡単に言えば、わたしの頭はまったく偏頗にできていて、言葉、あるいは記号に対しては常に単一の反応しかできないのだ。例えば、次のような「文章題」が試験に出されたとしよう。 「弟が二キロ離れた駅に向って家を出てから、十五分たって兄が自転車で同じ道を追いかけた。弟の歩く速さは毎分七十メートル、兄の自転車の速さは毎分二百二十メートルであるとすると、兄は出発後何分で弟に追いつくか」 これを読んだとき、わたしの頭にまず浮ぶのは、「弟は何を忘れたのか」という疑問である。弁当だろうか、それとも体操服だろうか。さらにわたしはのんびりと駅に歩いていく弟の姿と、その後を追って必死に自転車をこぐ兄の姿を想像する。それが冬ならば、兄の吐く白い息や、寒さにも関わらずその首筋に次第に浮ぶ汗の玉までが目に浮ぶ。そして自ら作り上げたその光景に感動すら覚えかねないのである。 これを読んだのは今はなき早大文学部のコミュニケーション・サイトの一企画であった。デッドリンク。早大のウェブサイトのリニューアルに伴い、どこかに移ってしまったらしい。今は無いものを何故上のごとく正確に引用できるかというと、心当たりに文面を検索してみたら、まさしくこの一文に行き当たった。あろうことか 2002年ごろ 2ch のあるスレッドにペイストされ、論（あげつら）われていたのだ。いわく早稲田の教授は「中学数学もできない」「ヴァカ」であり、まさに「ヴァカ田」であると。わざわざスレッドまで立ち上げて厳しい舌鋒で扱き下ろしにかかる「&#62;１」氏が、早稲田大学に対してどうしてこれほどまでも恨みつらみを募らせているのかは判らない。安藤「文人」氏の諧謔に満ちた小文の趣旨は、要するに「自分は徹頭徹尾『文学的』な人間なのだ」という、文学者としての自嘲とも自負ともとれる告白なのであるが、上の如き韜晦を目にして本当に「早稲田の教授は中学数学もできない」というメッセージを受け取るのみというのは、かなり論難氏の読解力に不足を感じる。 もう一点指摘しておけば、もし仮に上のような問題を前に立ちすくんでいたのだとするならば、安藤氏は中学数学に躓いたのではなくて、おそらく小学算数にすでに躓いている。安藤氏の使った「数学」という言葉に引きずられたのだろうが「&#62;１」氏は手ぬるい。どう見てもこれは「算数」だ。小学校の問題である。事柄に則して言うなら「小学校の算数もできない」と難じるべきところである。 文系と理系 ことは「文系と理系」の区別の話に見える。だがこれは公平に言って疑似問題というべきだろう。ことの序でに啖呵を切っておくなら「文系・理系」と言挙げして、ことさらに区別するのはどちらかというなら「文系」的な仕草ではないかとも思う。 私はといえば、学部で仏文、修士でフランス現代思想とドイツ観念論、博士で言語学、留学先で西欧古典のハードコアと、どう考えても「ド文系」としか言えないフォルマシオンを経てきた人間であるが、自分のことをどちらかというならば理系マインドの持ち主であると自任して恥じない。しかし…… 思ってみれば「文系・理系の区別」になんらかの実態はあるのだろうか？　あるとすれば、それは畢竟なんのための区別なのか。 「文系・理系の区別」は、たんに学制の問題ばかりではなく属人的な評価として使われる場合には、「理系の人」側が「とくに必要なところで定量的なものの考え方をしてくれない相手」を論難する場合にしばしば持ち出される。情緒の文系・理性の理系とでもいった俗な分別が瀰漫しているのである。しかしこうした二文法こそ情緒的なものに他ならないのであって、話の判らない相手を「文系」と決めつけるのは理系の自負に対してはなはだ自己同一性を欠く振る舞いである。己の「理系性」を誇ろうというなら、問題を「理系度・文系度」の多寡という形で定量化しておいてもらいたいものだ。 そもそも、相手がこちらの話を判ってくれないのは、こちらが分明であると思っていることを相手が認めていない、あるいは気にしていない（大事なポイントであると思っていない）からであって、要するに相手の関心はどこか他のところにあるのが一般である。この場合、相手の無理解をこの文脈における「文系性」に求めるとしたら、これは筋違いなことであり、それこそ自分の「文系性」を恥じるべきである。ここでいう「文系性」とはようするに「馬鹿」ということであって、それは自分に跳ね返ってきているのである。 しかしここで手のひらを返すようなことを言えば、一方で「文系・理系の区別」が、事実上の「理系の優位」とともに確認される事実はある。とくにセンター試験などの、ある程度公平な条件の元でみると、理系学部を選択した受験生の科目ごと平均点は、英語や国語のような文系科目においてすらも、しばしば文系学部選択の受験生に拮抗するか、勝るのである。つまり単に理系の学生の方が平均的に優秀だということになる、文系科目においてすら。 これは十分に予想されることで、実際文系に「転向」する理系受験生は多いが、その逆はまれだ。数学や物理についていけなかった生徒が己を「文系である」と消極的にアイデンティファイする（せざるをえない）一方で、数学や物理を得意とする生徒は己を「理系である」と積極的にアイデンティファイする。この差は大きい。無論、国語や英語が著しく得意であることをもって己を積極的に文系とアイデンティファイすることも世には少なからずあるだろうが、「国語や英語が苦手である」という理由で己を「消極的に」理系とアイデンティファイする生徒となるとぐっと頻度が減るだろう。理系の受験生はたいてい国語も英語もさほど苦手とはしていないものである。この辺は各論には適用できなくとも、総論としては定量化できる程度の事実であろうかと考える。 してみると世の中にいるのは「理系と文系」ではなく、単に「理系と理系が苦手な人」ということになるのではないか。これが結論ではいかにも癪だ。いかに自分が理系マインドの持ち主であるなどと自任してみたところで、私はやはりながらく文系学部に学費を払い、文系学部から給金を得ていた立場である。これで「文系」の積極的な意義と価値とを主張できなければ、自我の拠り所にかかわる。 「文系の人」の周辺で言うと、「文系・理系の区別」はふつう、「文系の人」が数学や物理化学を苦手としていることの自嘲に持ち出される。しかし思えば、数学や物理化学を苦手としている（していた）ことは単に、理系科目の成績が悪かったというだけのことしか意味しない（非理系の確認に過ぎない）のであって、その人が「文系の人」であることを保証しない。上の安藤氏のごとく、「文系人」としての積極的な自負がある場合などむしろ少ない。 問題はここである。「文系人」としての積極的な自負とは何か。 弟は何を忘れたのか 安藤氏の「弟は何を忘れたのか」という問いは、それに一つの答えを与えているように思う。 理系学問の礎、数学は原則として抽象・捨象の学問である。林檎と梨と蜜柑が合わせて「三つ」になる世界である。四人の人間と、四つの次元と、四つの行列が、望めば等価に扱える世界である。ヒルベルトの言うように、点と線と面が、それぞれ机とコップと定規（だったかな）でも構わないような、約束事だけで成り立つ抽象世界である。 だが、ここにその「三つ」は林檎だったのか、梨だったのか、蜜柑だったのかと、そこに拘泥する者がいたら、その時、それは一つの問題を構成する。還元に向かう学の世界と、どこまでも細部に拘泥する学の世界は、ベクトルは異なってもスカラーの強度には変わりはない。 理系科目が夾雑物を廃して、たとえば実測誤差を勘案の上で、ある理論、理論値の正当性を確かめていこうとするときに、文系科目は時に徹底して「何が廃されているのか、なにが（便宜上）夾雑物とされたのか」を問い続ける。理想的には収束する理系科目の結論に対して、このとき文系科目は結論において発散する。もしかしたらこれが文系科目の目に見える難しさの由来かもしれない。 もっともこれは理・文を反対にしても持っていき方次第では同じようなことが言えそうだ。もとより雑ぱくな議論ではあるが、ともかく私は安藤氏の「弟は何を忘れたのか」という問いを忘れることが出来ない。あるいは、そもそも「兄は間に合うのか」という焦慮を自分に禁じることが出来ない。 冒頭の算数の問題からすると、これこれの条件で兄が何分後に追いつくかということだけで題意には足りているはずである。では問題を作った人はなぜに弟は「２キロ離れた駅に向かって家を出た」と冒頭に書き足したのだろうか！ これは実は数学的には無用な情報である。解答者を惑わすための、余剰の情報だったのだろうか？　実際には兄はぴったり七分後に、駅まで460メートルを残したところで弟に追いつくのである。つまり弟の出発の22分後に、弟は1540メートル地点で「忘れ物を届けに来た兄」に呼び止められることになるのである。この計算自体に弟の目的地「駅」も道程が「２キロ」であることも係（かかずら）わない。 ここで弟が向かったのが「駅」だったのは偶然なのだろうか、そして駅までの距離が「２キロ」だったのはたまさかのことだったのだろうか？　とんでもない！　弟が駅に向かったということは、兄がもし間に合わなければ弟は電車に乗ってしまい、それっきり決して追いつくことが出来ないということを含意しているに他ならない。それはすなわち弟があえなく「弁当無しの昼」なり「意に染まぬ体育の見学」なりを強いられる運命を意味している。駅までの距離が２キロだったのにも意味がある。人は通常はざっくり時速４キロほどで歩く。２キロの道程の所要時間はざっくり30分。対して、兄が弟を追い始めるのは、弟の出発後15分後である。この段階で弟はすでに道程の半ば（この問題では正確には1.05キロに達している）を過ぎている！　兄は弟の倍のスピードで自転車を走らせても追いつけないのである。 そりゃあ兄の方だって「首筋に玉の汗を浮かべて」追いすがりもするだろうさ。 明らかにこの問題にはサスペンスがある。この問題には「文学」がある。文人を感動させるドラマがある。つい呼び捨てにしてしまったが安藤先生ごめんなさい。 文人が（あっ、また）この問題の数学的側面を無視して、「そんなにまでして兄が届けたかった忘れ物は何だったのか」と夢想にふける理由はありすぎるほどある。文人の炯眼は何でもない算数の問題に、それとなく書き足されていた重要な情報を見逃すことが出来なかった。この問題には「読む」ことを強いる、「読め」と命じる、たしかに文学的な意匠が施されていたのである。これに立ち止まらずして「文系人」の自負はあるまい。 だから文人は読んだのだ。なぜ「駅」、なぜ「２キロ」、その細部に事態の切迫を告げ知らせる兆しがあり、それでも弟を追った兄の決断があり、しからば兄が急ぐよっぽどの理由がなければならない。どうしても弟に届けなければならない何かがあったはずなのだ。なにか大事なものが。 「弟が忘れたのは何だったのか？」それは文人の夢想ではない。この短い問題文の中にありありと浮かび上がる、問うべき問いであった。答えが「７分後」、それでよかったのなら、ただそれだけのことなら、この問題が「このように」問われる必要はなかった。 そして問題が現に「このように」問われている以上、文人は「忘れ物は何だったのか」との想いを致さざるを得ない。 これが「読む」ということ、強く言えば「文系」の仕事の一端である。 （もういちいち断らなかったが、安藤文人先生に、勢い余って何度も呼び捨てにしたことをお詫びします）<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=marginaliae.wordpress.com&amp;blog=14250802&amp;post=200&amp;subd=marginaliae&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>かつて英文学者の安藤文人（ふみと）先生の随筆に膝を打ったことがある。「ある『落ちこぼれ』の弁解」と題するエッセイで、ご自分が数学が苦手であったことを自虐的、諧謔的に回想した一文であった。敬称に先生としたのは実際にお世話になったことがあるから。以下は簡便のため「氏」とさせていただく。</p>
<blockquote><p><span id="more-200"></span>　今でも数学は勿論わからないし、時折夢の中で悩まされる以外は数学のことを思い出しもしないが、近頃になってようやくわたしに欠けていた能力が実際は何であったのかがわかってきたような気がする。簡単に言えば、わたしの頭はまったく偏頗にできていて、言葉、あるいは記号に対しては常に単一の反応しかできないのだ。例えば、次のような「文章題」が試験に出されたとしよう。</p>
<p>「弟が二キロ離れた駅に向って家を出てから、十五分たって兄が自転車で同じ道を追いかけた。弟の歩く速さは毎分七十メートル、兄の自転車の速さは毎分二百二十メートルであるとすると、兄は出発後何分で弟に追いつくか」</p>
<p>これを読んだとき、わたしの頭にまず浮ぶのは、「弟は何を忘れたのか」という疑問である。弁当だろうか、それとも体操服だろうか。さらにわたしはのんびりと駅に歩いていく弟の姿と、その後を追って必死に自転車をこぐ兄の姿を想像する。それが冬ならば、兄の吐く白い息や、寒さにも関わらずその首筋に次第に浮ぶ汗の玉までが目に浮ぶ。そして自ら作り上げたその光景に感動すら覚えかねないのである。</p></blockquote>
<p>これを読んだのは今はなき早大文学部のコミュニケーション・サイトの一企画であった。<a href="http://www.littera.waseda.ac.jp/littera/mag/essay/maga017.html" target="_blank">デッドリンク</a>。早大のウェブサイトのリニューアルに伴い、どこかに移ってしまったらしい。今は無いものを何故上のごとく正確に引用できるかというと、心当たりに文面を検索してみたら、まさしくこの一文に行き当たった。あろうことか 2002年ごろ <a href="http://mimizun.com/2chlog/joke/tmp.2ch.net/joke/kako/1016/10161/1016193082.html" target="_blank">2ch のあるスレッド</a>にペイストされ、論（あげつら）われていたのだ。いわく早稲田の教授は「中学数学もできない」「ヴァカ」であり、まさに「ヴァカ田」であると。わざわざスレッドまで立ち上げて厳しい舌鋒で扱き下ろしにかかる「&gt;１」氏が、早稲田大学に対してどうしてこれほどまでも恨みつらみを募らせているのかは判らない。安藤「文人」氏の諧謔に満ちた小文の趣旨は、要するに「自分は徹頭徹尾『文学的』な人間なのだ」という、文学者としての自嘲とも自負ともとれる告白なのであるが、上の如き韜晦を目にして本当に「早稲田の教授は中学数学もできない」というメッセージを受け取るのみというのは、かなり論難氏の読解力に不足を感じる。</p>
<p>もう一点指摘しておけば、もし仮に上のような問題を前に立ちすくんでいたのだとするならば、安藤氏は中学数学に躓いたのではなくて、おそらく小学算数にすでに躓いている。安藤氏の使った「数学」という言葉に引きずられたのだろうが「&gt;１」氏は手ぬるい。どう見てもこれは「算数」だ。小学校の問題である。事柄に則して言うなら「小学校の算数もできない」と難じるべきところである。</p>
<p><strong>文系と理系</strong></p>
<p>ことは「文系と理系」の区別の話に見える。だがこれは公平に言って疑似問題というべきだろう。ことの序でに啖呵を切っておくなら「文系・理系」と言挙げして、ことさらに区別するのはどちらかというなら「文系」的な仕草ではないかとも思う。</p>
<p>私はといえば、学部で仏文、修士でフランス現代思想とドイツ観念論、博士で言語学、留学先で西欧古典のハードコアと、どう考えても「ド文系」としか言えないフォルマシオンを経てきた人間であるが、自分のことをどちらかというならば理系マインドの持ち主であると自任して恥じない。しかし……</p>
<p>思ってみれば「文系・理系の区別」になんらかの実態はあるのだろうか？　あるとすれば、それは畢竟なんのための区別なのか。</p>
<p>「文系・理系の区別」は、たんに学制の問題ばかりではなく属人的な評価として使われる場合には、「理系の人」側が「とくに必要なところで定量的なものの考え方をしてくれない相手」を論難する場合にしばしば持ち出される。情緒の文系・理性の理系とでもいった俗な分別が瀰漫しているのである。しかしこうした二文法こそ情緒的なものに他ならないのであって、話の判らない相手を「文系」と決めつけるのは理系の自負に対してはなはだ自己同一性を欠く振る舞いである。己の「理系性」を誇ろうというなら、問題を「理系度・文系度」の多寡という形で定量化しておいてもらいたいものだ。</p>
<p>そもそも、相手がこちらの話を判ってくれないのは、こちらが分明であると思っていることを相手が認めていない、あるいは気にしていない（大事なポイントであると思っていない）からであって、要するに相手の関心はどこか他のところにあるのが一般である。この場合、相手の無理解をこの文脈における「文系性」に求めるとしたら、これは筋違いなことであり、それこそ自分の「文系性」を恥じるべきである。ここでいう「文系性」とはようするに「馬鹿」ということであって、それは自分に跳ね返ってきているのである。</p>
<p>しかしここで手のひらを返すようなことを言えば、一方で「文系・理系の区別」が、事実上の「理系の優位」とともに確認される事実はある。とくにセンター試験などの、ある程度公平な条件の元でみると、理系学部を選択した受験生の科目ごと平均点は、英語や国語のような文系科目においてすらも、しばしば文系学部選択の受験生に拮抗するか、勝るのである。つまり単に理系の学生の方が平均的に優秀だということになる、文系科目においてすら。</p>
<p>これは十分に予想されることで、実際文系に「転向」する理系受験生は多いが、その逆はまれだ。数学や物理についていけなかった生徒が己を「文系である」と消極的にアイデンティファイする（せざるをえない）一方で、数学や物理を得意とする生徒は己を「理系である」と積極的にアイデンティファイする。この差は大きい。無論、国語や英語が著しく得意であることをもって己を積極的に文系とアイデンティファイすることも世には少なからずあるだろうが、「国語や英語が苦手である」という理由で己を「消極的に」理系とアイデンティファイする生徒となるとぐっと頻度が減るだろう。理系の受験生はたいてい国語も英語もさほど苦手とはしていないものである。この辺は各論には適用できなくとも、総論としては定量化できる程度の事実であろうかと考える。</p>
<p>してみると世の中にいるのは「理系と文系」ではなく、単に「理系と理系が苦手な人」ということになるのではないか。これが結論ではいかにも癪だ。いかに自分が理系マインドの持ち主であるなどと自任してみたところで、私はやはりながらく文系学部に学費を払い、文系学部から給金を得ていた立場である。これで「文系」の積極的な意義と価値とを主張できなければ、自我の拠り所にかかわる。</p>
<p>「文系の人」の周辺で言うと、「文系・理系の区別」はふつう、「文系の人」が数学や物理化学を苦手としていることの自嘲に持ち出される。しかし思えば、数学や物理化学を苦手としている（していた）ことは単に、理系科目の成績が悪かったというだけのことしか意味しない（非理系の確認に過ぎない）のであって、その人が「文系の人」であることを保証しない。上の安藤氏のごとく、「文系人」としての積極的な自負がある場合などむしろ少ない。</p>
<p>問題はここである。「文系人」としての積極的な自負とは何か。</p>
<p><strong>弟は何を忘れたのか</strong></p>
<p>安藤氏の「弟は何を忘れたのか」という問いは、それに一つの答えを与えているように思う。</p>
<p>理系学問の礎、数学は原則として抽象・捨象の学問である。林檎と梨と蜜柑が合わせて「三つ」になる世界である。四人の人間と、四つの次元と、四つの行列が、望めば等価に扱える世界である。ヒルベルトの言うように、点と線と面が、それぞれ机とコップと定規（だったかな）でも構わないような、約束事だけで成り立つ抽象世界である。</p>
<p>だが、ここにその「三つ」は林檎だったのか、梨だったのか、蜜柑だったのかと、そこに拘泥する者がいたら、その時、それは一つの問題を構成する。還元に向かう学の世界と、どこまでも細部に拘泥する学の世界は、ベクトルは異なってもスカラーの強度には変わりはない。</p>
<p>理系科目が夾雑物を廃して、たとえば実測誤差を勘案の上で、ある理論、理論値の正当性を確かめていこうとするときに、文系科目は時に徹底して「何が廃されているのか、なにが（便宜上）夾雑物とされたのか」を問い続ける。理想的には収束する理系科目の結論に対して、このとき文系科目は結論において発散する。もしかしたらこれが文系科目の目に見える難しさの由来かもしれない。</p>
<p>もっともこれは理・文を反対にしても持っていき方次第では同じようなことが言えそうだ。もとより雑ぱくな議論ではあるが、ともかく私は安藤氏の「弟は何を忘れたのか」という問いを忘れることが出来ない。あるいは、そもそも「兄は間に合うのか」という焦慮を自分に禁じることが出来ない。</p>
<p>冒頭の算数の問題からすると、これこれの条件で兄が何分後に追いつくかということだけで題意には足りているはずである。では問題を作った人はなぜに弟は「２キロ離れた駅に向かって家を出た」と冒頭に書き足したのだろうか！</p>
<p>これは実は数学的には無用な情報である。解答者を惑わすための、余剰の情報だったのだろうか？　実際には兄はぴったり七分後に、駅まで460メートルを残したところで弟に追いつくのである。つまり弟の出発の22分後に、弟は1540メートル地点で「忘れ物を届けに来た兄」に呼び止められることになるのである。この計算自体に弟の目的地「駅」も道程が「２キロ」であることも係（かかずら）わない。</p>
<p>ここで弟が向かったのが「駅」だったのは偶然なのだろうか、そして駅までの距離が「２キロ」だったのはたまさかのことだったのだろうか？　とんでもない！　弟が駅に向かったということは、兄がもし間に合わなければ弟は電車に乗ってしまい、それっきり決して追いつくことが出来ないということを含意しているに他ならない。それはすなわち弟があえなく「弁当無しの昼」なり「意に染まぬ体育の見学」なりを強いられる運命を意味している。駅までの距離が２キロだったのにも意味がある。人は通常はざっくり時速４キロほどで歩く。２キロの道程の所要時間はざっくり30分。対して、兄が弟を追い始めるのは、弟の出発後15分後である。この段階で弟はすでに道程の半ば（この問題では正確には1.05キロに達している）を過ぎている！　兄は弟の倍のスピードで自転車を走らせても追いつけないのである。</p>
<p>そりゃあ兄の方だって「首筋に玉の汗を浮かべて」追いすがりもするだろうさ。</p>
<p>明らかにこの問題にはサスペンスがある。この問題には「文学」がある。文人を感動させるドラマがある。つい呼び捨てにしてしまったが安藤先生ごめんなさい。</p>
<p>文人が（あっ、また）この問題の数学的側面を無視して、「そんなにまでして兄が届けたかった忘れ物は何だったのか」と夢想にふける理由はありすぎるほどある。文人の炯眼は何でもない算数の問題に、それとなく書き足されていた重要な情報を見逃すことが出来なかった。この問題には「読む」ことを強いる、「読め」と命じる、たしかに文学的な意匠が施されていたのである。これに立ち止まらずして「文系人」の自負はあるまい。</p>
<p>だから文人は読んだのだ。なぜ「駅」、なぜ「２キロ」、その細部に事態の切迫を告げ知らせる兆しがあり、それでも弟を追った兄の決断があり、しからば兄が急ぐよっぽどの理由がなければならない。どうしても弟に届けなければならない何かがあったはずなのだ。なにか大事なものが。</p>
<p>「弟が忘れたのは何だったのか？」それは文人の夢想ではない。この短い問題文の中にありありと浮かび上がる、問うべき問いであった。答えが「７分後」、それでよかったのなら、ただそれだけのことなら、この問題が「このように」問われる必要はなかった。</p>
<p>そして問題が現に「このように」問われている以上、文人は「忘れ物は何だったのか」との想いを致さざるを得ない。</p>
<p>これが「読む」ということ、強く言えば「文系」の仕事の一端である。</p>
<p>（もういちいち断らなかったが、安藤文人先生に、勢い余って何度も呼び捨てにしたことをお詫びします）</p>
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		<title>ウナギ文の好例コレクション</title>
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		<pubDate>Tue, 20 Sep 2011 21:14:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>theuthe</dc:creator>
				<category><![CDATA[03 absurdités]]></category>
		<category><![CDATA[04 les langues]]></category>
		<category><![CDATA[日本語]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://marginaliae.wordpress.com/?p=236</guid>
		<description><![CDATA[興味深いウナギ文を収集している。その都度更新。 ウナギ文とは何か。 wikipedia から「コピュラ」の項を見よ。以下抜粋： 日本語では、「僕はウナギだ」「私はプリンです」のように、「買う」「選ぶ」「取る」「食べる」などの意の動詞の代替でコピュラを用いることが多くあり、このようにコピュラの使用をする構文を最も代表的な「僕はウナギだ」にちなんで、ウナギ文という。 コピュラの定義もそもそも難しいのだが、それ以上に、上記ウィキペディア項目の「ウナギ文」はやや説明が偏頗かと思われる。日本語のコピュラ相当「ウナギ文」にはほとんど使用制約がない。「買う・選ぶ・取る・食べる」など（上記記事による）には限らない。相手取る動詞に関して、ほとんど全語彙的に通用する。 しかも日本語のウナギ文は、印欧語の「名詞文（バンヴェニスト）」のように「格言的・定義的」な陰影を帯びない。きわめて卑俗に普通に通用する。これは名詞の格表示において、主格や対格といった「文構成の上で主要な格形」に対する標準的な表現形態が「ゼロ」だということが大きいと思われる。 俺、行くよ（主格マーカー・ゼロ） それ、もらっとく（対格マーカー・ゼロ） 「俺は／が行くよ」や「それをもらっとく」に比べると、格表示マーカーがゼロである方が自然である。ニュートラルな発言である。ここで「は／が」あるいは「を」を丁寧に挿入すると特別な含意が生じかねない。その伝では、「は」はもちろんのこと（これを単純な格マーカーだと思っている人はいないだろう）、「が」や「を」も、それぞれ「主格」「対格」のマーカーであるというよりも、その「強調・明示化」ほどの意味しか負っていない（あるいはそれ以上の特別な意味を負っている）と捕らえるべきだと思われる。が、それはまた別の話。 「オレはカツ丼、お前は？」 「俺、ウナギ」 これが成立するのは日本語ばかりではない。しかし日本語はウナギ文生成の制約がゆるく、面白いウナギ文が量産される言語の一つではある。今は理由は問わない。 「家の娘は男です」 言語学者なら知らぬもののない、有名な例。 「孫が出来たんですよ！」 「あら、それはお目出度うございます！」 「初孫なんですよ。まだこんななんだけど可愛くってね。」 「女の子？　男の子？」 「女の子なんですよ。お宅の娘さんのところ、もう初孫がいらっしゃったわね？」 「ええ、家の娘は男です」 収集例 −−−−−−−−−−−− 140 東京都名無区 2007/02/27(火) 00:55:38 ID:h5Ti5/Oo オススメの動物病院がありましたら教えてください。 犬です。 141 東京都名無区 2007/02/28(水) 00:58:37 ID:Qg4nr0mY 賢い犬だなあ。 −−−−−−−−−−−− スレタイ：105円以内で一番満足出来るお菓子 1 名前：びぷます 投稿日：2007/12/15(土) 16:57:41.75 ID:HPIO0w/rO 50円＋50円等の組み合わせでもおｋ 俺はウエハース 2 名前：以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 投稿日：2007/12/15(土) 16:58:26.07 ID:jz6X144K0 うまい棒*10 俺は人間 4 名前：以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 投稿日：2007/12/15(土) [...]<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=marginaliae.wordpress.com&amp;blog=14250802&amp;post=236&amp;subd=marginaliae&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>興味深いウナギ文を収集している。その都度更新。</p>
<h2>ウナギ文とは何か。</h2>
<p>wikipedia から「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/コピュラ">コピュラ</a>」の項を見よ。以下抜粋：</p>
<blockquote><p>日本語では、「僕はウナギだ」「私はプリンです」のように、「買う」「選ぶ」「取る」「食べる」などの意の動詞の代替でコピュラを用いることが多くあり、このようにコピュラの使用をする構文を最も代表的な「僕はウナギだ」にちなんで、ウナギ文という。</p></blockquote>
<p><span id="more-236"></span></p>
<p>コピュラの定義もそもそも難しいのだが、それ以上に、上記ウィキペディア項目の「ウナギ文」はやや説明が偏頗かと思われる。日本語のコピュラ相当「ウナギ文」にはほとんど使用制約がない。「買う・選ぶ・取る・食べる」など（上記記事による）には限らない。相手取る動詞に関して、ほとんど全語彙的に通用する。</p>
<p>しかも日本語のウナギ文は、印欧語の「名詞文（バンヴェニスト）」のように「格言的・定義的」な陰影を帯びない。きわめて卑俗に普通に通用する。これは名詞の格表示において、主格や対格といった「文構成の上で主要な格形」に対する標準的な表現形態が「ゼロ」だということが大きいと思われる。</p>
<blockquote><p>俺、行くよ（主格マーカー・ゼロ）</p>
<p>それ、もらっとく（対格マーカー・ゼロ）</p></blockquote>
<p>「俺は／が行くよ」や「それをもらっとく」に比べると、格表示マーカーがゼロである方が自然である。ニュートラルな発言である。ここで「は／が」あるいは「を」を丁寧に挿入すると特別な含意が生じかねない。その伝では、「は」はもちろんのこと（これを単純な格マーカーだと思っている人はいないだろう）、「が」や「を」も、それぞれ「主格」「対格」のマーカーであるというよりも、その「強調・明示化」ほどの意味しか負っていない（あるいはそれ以上の特別な意味を負っている）と捕らえるべきだと思われる。が、それはまた別の話。</p>
<blockquote><p>「オレはカツ丼、お前は？」</p>
<p>「俺、ウナギ」</p></blockquote>
<p>これが成立するのは日本語ばかりではない。しかし日本語はウナギ文生成の制約がゆるく、面白いウナギ文が量産される言語の一つではある。今は理由は問わない。</p>
<h2>「家の娘は男です」</h2>
<p>言語学者なら知らぬもののない、有名な例。</p>
<blockquote><p>「孫が出来たんですよ！」</p>
<p>「あら、それはお目出度うございます！」</p>
<p>「初孫なんですよ。まだこんななんだけど可愛くってね。」</p>
<p>「女の子？　男の子？」</p>
<p>「女の子なんですよ。お宅の娘さんのところ、もう初孫がいらっしゃったわね？」</p>
<p>「ええ、家の娘は男です」</p></blockquote>
<h2>収集例</h2>
<p>−−−−−−−−−−−−</p>
<p>140 東京都名無区 2007/02/27(火) 00:55:38 ID:h5Ti5/Oo</p>
<p>オススメの動物病院がありましたら教えてください。</p>
<p>犬です。</p>
<p>141 東京都名無区 2007/02/28(水) 00:58:37 ID:Qg4nr0mY</p>
<p>賢い犬だなあ。</p>
<p>−−−−−−−−−−−−</p>
<p>スレタイ：105円以内で一番満足出来るお菓子</p>
<p>1 名前：びぷます 投稿日：2007/12/15(土) 16:57:41.75 ID:HPIO0w/rO</p>
<p>50円＋50円等の組み合わせでもおｋ</p>
<p>俺はウエハース</p>
<p>2 名前：以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 投稿日：2007/12/15(土) 16:58:26.07 ID:jz6X144K0</p>
<p>うまい棒*10</p>
<p>俺は人間</p>
<p>4 名前：以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 投稿日：2007/12/15(土) 16:59:48.22 ID:KD314eP30</p>
<p>2のせいで1がウエハースにしか見えなくなってきた</p>
<p>−−−−−−−−−−−−</p>
<p>このブログには稀なことであるが、収集が目的なので広く閲覧者の協力を仰ぎたく、この項では例外的にコメント欄を開放する。</p>
<p>ただしウナギ文を含まぬコメントは悪しからず削除させていただきたい。後漢書を恋う。（あまりにすごい誤変換（かわせみ@Mac) が出たので消してしまうに忍びなく、そのままとする）</p>
<br />  <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gocomments/marginaliae.wordpress.com/236/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/comments/marginaliae.wordpress.com/236/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godelicious/marginaliae.wordpress.com/236/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/delicious/marginaliae.wordpress.com/236/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gofacebook/marginaliae.wordpress.com/236/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/facebook/marginaliae.wordpress.com/236/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gotwitter/marginaliae.wordpress.com/236/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/twitter/marginaliae.wordpress.com/236/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gostumble/marginaliae.wordpress.com/236/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/stumble/marginaliae.wordpress.com/236/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godigg/marginaliae.wordpress.com/236/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/digg/marginaliae.wordpress.com/236/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/goreddit/marginaliae.wordpress.com/236/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/reddit/marginaliae.wordpress.com/236/" /></a> <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=marginaliae.wordpress.com&amp;blog=14250802&amp;post=236&amp;subd=marginaliae&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>重複のある地名、補遺</title>
		<link>http://marginaliae.wordpress.com/2011/09/15/204/</link>
		<comments>http://marginaliae.wordpress.com/2011/09/15/204/#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 15 Sep 2011 16:19:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator>theuthe</dc:creator>
				<category><![CDATA[03 absurdités]]></category>
		<category><![CDATA[Uncategorized]]></category>

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		<description><![CDATA[かつて「由来を失ってどこまでも重なっていく言葉」の項で、地名における意味の重複について触れた。今回の記事はその補遺である。 「意味の重複」についてネット上に流通している結構有名なコピペがある： 「ボリショイ」とはロシア語で「大」と言う意味。つまりボリショイ大サーカスでは「大大サーカス」 チゲと言うのは「鍋」と言う意味なので、チゲ鍋では「鍋鍋」 クーポンと言う言葉は「券」と言う意味なので「クーポン券」では「券券」 襟裳(えりも)はアイヌ語のエンルムからきていて意味は「岬」の事、つまり襟裳岬は「岬岬」 フラダンスの「フラ」とはダンスを意味する言葉なので、フラダンスは「ダンスダンス」 スキーという言葉は元々ノルウェー語で薄い「板」を差す言葉なので「スキー板」では「板板」 アラーの神と言う言葉、「アラー」とは「唯一神」の事なので「神神」 イスラム・シーア派の「シーア」は派閥という意味で「シーア派」は「派派」 トリコロールカラーと言う言い方「コロール」がカラーの事なので「３色色」 サハラとは「砂漠」の意味なので「サハラ砂漠」では「砂漠砂漠」 ガンジス川のガンジスとはサンスクリット語の川という意味の英語読み、つまりガンジス川は「川川」 ナイル川のナイルも川。インダス川のインダスも、タイのメナム川のメナムも、チベットからインドシナ半島のメコン川のメコンも、中国～シベリアのアムール川のアムールも、すべて川という意味で「川川」 「ボリショイ・サーカス」なら聞くが「ボリショイ大サーカス」なんて言っている人いるのだろうか。幾つか、いわゆる「藁人形があげつらわれている状態」になっている節も感じられる。「チゲ鍋」は聞いたことはあるような気もするが、「キムチ・チゲ」とか「カルビ・チゲ」とか、「チゲ＝鍋（煮込）」という連想は割と広まっているような。 また「アラーの神」という言い方は歴然と古い。宗教的な理由で駆逐されつつある用法といえるかもしれない。 しかしフラダンスとかサハラ砂漠というのはもはや、そうとしか言わないというぐらいに定着していると言っていいだろう。 頭書の前記事でもふれたように地名というのは、とりわけ意味の重複が起こりやすい内的条件を持っている。語構成要素に外国語由来の部分があると重複地名となりやすい。上の記述の中の地名にかかわる部分を跡付けてみた。 「川川」シリーズの語源学： ガンジス川は「川川」：ガンジスとはサンスクリット語の「川」（ガンガー : गंगा）。 ナイル川は「川川」：ナイルとはアラビア語の「川」（ النيل‎ : an-nīl）。 インダス川は「川川」：インダスはサンスクリットの「川」（インダス : सिन्धु ; ギリシャ語 : Ινδός）。国名インドの語源でもある。 タイのメナム川は「川川」：メナムはタイ語の「川」（メーナーム : แม่น้ำ）。 インドシナ半島のメコン川は「川川」：メーは上記メーナームの短縮語で「川」、コーンについては諸説あり。 中国～シベリアのアムール川（黒竜江）は「川川」：アムールはロシア語の「川」（Амур）。 襟裳岬については保留としておく。 襟裳(えりも)はアイヌ語のエンルムからきていて意味は「岬」の事、つまり襟裳岬は「岬岬」 とのことだが、アイヌ語の「エンルム en-rum 」は「突き出た頭」 (wikipedia/jp : 襟裳岬) と一般にされている。曰く（ウィキペディア：s.v.）： 地名の由来はアイヌ語の「エンルム」（突き出た頭）または「エリモン」（うずくまったネズミ）など諸説ある。 このエンルムを直に「岬」の意味とするのは若干の牽強付会とならないか。「突き出た頭」の「岬」で「エリモ岬」ならば特段の重複は無い。 もとより北海道はほかにも、たとえば様似に「エンルム岬」があり、室蘭に絵鞆岬がある。これら（特に前者は一目瞭然だが）は襟裳岬と同語源でエンルムに遡る見解がある。岬をアイヌ語でエンルムと称することには傍証がある訳だ。しかしこのことからただちに「エンルムはアイヌ語の『岬』である」ということにはならない。むしろ「アイヌ語では『岬』のことを『出っ張った頭』と言っていたのだ」とする方が自然ではないかとも思える。 こういう発想はちょっと安易かもしれないが、様似のエンルム岬をイメージ検索してみると、これは「出っ張り頭」としか言えない様子をしていて、私は笑ってしまった。 そもそもアイヌ語では岬やら峠やらを「人体の部分」名称で呼ぶことが多いという。佐藤和美氏「北海道のアイヌ語地名」（「言葉の世界 」の一コーナー）の簡明な説明から抜粋してみると（引用にあたり原文の改行を取り、箇条書きに）： 「鼻」はアイヌ語で「エトゥ」etuである。［中略］尾岱沼の語源は「オタエトゥ」ota-etu（砂の岬）。 「あご」はアイヌ語で「ノツ」notである。能取岬は「ノトロ」Not-orで、「岬の所」という意味である。納沙布（のさっぷ）岬も野寒布（のしゃっぷ）岬も語源は同じで、「ノツサム」Not-sam（岬のかたわら）が語源である。 [...]<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=marginaliae.wordpress.com&amp;blog=14250802&amp;post=204&amp;subd=marginaliae&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>かつて「<a href="http://marginaliae.wordpress.com/2010/06/19/由来を失ってどこまでも重なっていく言葉/" target="_blank">由来を失ってどこまでも重なっていく言葉</a>」の項で、地名における意味の重複について触れた。今回の記事はその補遺である。</p>
<p>「意味の重複」についてネット上に流通している結構有名なコピペがある：<span id="more-204"></span></p>
<ul>
<li>「ボリショイ」とはロシア語で「大」と言う意味。つまりボリショイ大サーカスでは「大大サーカス」</li>
<li>チゲと言うのは「鍋」と言う意味なので、チゲ鍋では「鍋鍋」</li>
<li>クーポンと言う言葉は「券」と言う意味なので「クーポン券」では「券券」</li>
<li>襟裳(えりも)はアイヌ語のエンルムからきていて意味は「岬」の事、つまり襟裳岬は「岬岬」</li>
<li>フラダンスの「フラ」とはダンスを意味する言葉なので、フラダンスは「ダンスダンス」</li>
<li>スキーという言葉は元々ノルウェー語で薄い「板」を差す言葉なので「スキー板」では「板板」</li>
<li>アラーの神と言う言葉、「アラー」とは「唯一神」の事なので「神神」</li>
<li>イスラム・シーア派の「シーア」は派閥という意味で「シーア派」は「派派」</li>
<li>トリコロールカラーと言う言い方「コロール」がカラーの事なので「３色色」</li>
<li>サハラとは「砂漠」の意味なので「サハラ砂漠」では「砂漠砂漠」</li>
<li>ガンジス川のガンジスとはサンスクリット語の川という意味の英語読み、つまりガンジス川は「川川」</li>
<li>ナイル川のナイルも川。インダス川のインダスも、タイのメナム川のメナムも、チベットからインドシナ半島のメコン川のメコンも、中国～シベリアのアムール川のアムールも、すべて川という意味で「川川」</li>
</ul>
<p>「ボリショイ・サーカス」なら聞くが「ボリショイ大サーカス」なんて言っている人いるのだろうか。幾つか、いわゆる「藁人形があげつらわれている状態」になっている節も感じられる。「チゲ鍋」は聞いたことはあるような気もするが、「キムチ・チゲ」とか「カルビ・チゲ」とか、「チゲ＝鍋（煮込）」という連想は割と広まっているような。</p>
<p>また「アラーの神」という言い方は歴然と古い。宗教的な理由で駆逐されつつある用法といえるかもしれない。</p>
<p>しかしフラダンスとかサハラ砂漠というのはもはや、そうとしか言わないというぐらいに定着していると言っていいだろう。</p>
<p>頭書の前記事でもふれたように地名というのは、とりわけ意味の重複が起こりやすい内的条件を持っている。語構成要素に外国語由来の部分があると重複地名となりやすい。上の記述の中の地名にかかわる部分を跡付けてみた。</p>
<p>「川川」シリーズの語源学：</p>
<ul>
<li>ガンジス川は「川川」：ガンジスとはサンスクリット語の「川」（ガンガー : गंगा）。</li>
<li>ナイル川は「川川」：ナイルとはアラビア語の「川」（ النيل‎ : an-nīl）。</li>
<li>インダス川は「川川」：インダスはサンスクリットの「川」（インダス : सिन्धु ; ギリシャ語 : Ινδός）。国名インドの語源でもある。</li>
<li>タイのメナム川は「川川」：メナムはタイ語の「川」（メーナーム : แม่น้ำ）。</li>
<li>インドシナ半島のメコン川は「川川」：メーは上記メーナームの短縮語で「川」、コーンについては諸説あり。</li>
<li>中国～シベリアのアムール川（黒竜江）は「川川」：アムールはロシア語の「川」（Амур）。</li>
</ul>
<p>襟裳岬については保留としておく。</p>
<blockquote><p>襟裳(えりも)はアイヌ語のエンルムからきていて意味は「岬」の事、つまり襟裳岬は「岬岬」</p></blockquote>
<p>とのことだが、アイヌ語の「エンルム en-rum 」は「突き出た頭」 (wikipedia/jp : 襟裳岬) と一般にされている。曰く（ウィキペディア：s.v.）：</p>
<blockquote><p>地名の由来はアイヌ語の「エンルム」（突き出た頭）または「エリモン」（うずくまったネズミ）など諸説ある。</p></blockquote>
<p>このエンルムを直に「岬」の意味とするのは若干の牽強付会とならないか。「突き出た頭」の「岬」で「エリモ岬」ならば特段の重複は無い。</p>
<p>もとより北海道はほかにも、たとえば様似に「エンルム岬」があり、室蘭に絵鞆岬がある。これら（特に前者は一目瞭然だが）は襟裳岬と同語源でエンルムに遡る見解がある。岬をアイヌ語でエンルムと称することには傍証がある訳だ。しかしこのことからただちに「エンルムはアイヌ語の『岬』である」ということにはならない。むしろ「アイヌ語では『岬』のことを『出っ張った頭』と言っていたのだ」とする方が自然ではないかとも思える。</p>
<p>こういう発想はちょっと安易かもしれないが、<a href="http://www.google.fr/search?q=様似%E3%80%80エンルム岬&amp;hl=fr&amp;safe=off&amp;client=safari&amp;rls=en&amp;prmd=ivns&amp;source=lnms&amp;tbm=isch&amp;ei=F1gYTtblGYzcsga-57DXDw&amp;sa=X&amp;oi=mode_link&amp;ct=mode&amp;cd=2&amp;ved=0CA4Q_AUoAQ&amp;biw=1079&amp;bih=764" target="_blank">様似のエンルム岬をイメージ検索</a>してみると、これは「出っ張り頭」としか言えない様子をしていて、私は笑ってしまった。</p>
<p>そもそもアイヌ語では岬やら峠やらを「人体の部分」名称で呼ぶことが多いという。佐藤和美氏「北海道のアイヌ語地名」（「<a href="http://www.asahi-net.or.jp/~hi5k-stu/index.htm" target="_blank">言葉の世界</a> 」の一コーナー）の<a href="http://www.asahi-net.or.jp/~hi5k-stu/aynu/misaki.htm" target="_blank">簡明な説明</a>から抜粋してみると（引用にあたり原文の改行を取り、箇条書きに）：</p>
<blockquote><p>「鼻」はアイヌ語で「エトゥ」etuである。［中略］尾岱沼の語源は「オタエトゥ」ota-etu（砂の岬）。</p>
<p>「あご」はアイヌ語で「ノツ」notである。能取岬は「ノトロ」Not-orで、「岬の所」という意味である。納沙布（のさっぷ）岬も野寒布（のしゃっぷ）岬も語源は同じで、「ノツサム」Not-sam（岬のかたわら）が語源である。</p>
<p>江差、枝幸［中略］の「エサシ」も岬である。「エサシ」は「エサウシ」で、これの詳しい意味は e（頭）＋sa（浜）＋us（につけている）＋i（もの）になる。</p>
<p>襟裳岬の語源は「エンルム」enrumである。これも岬の意である。「エンルム」の詳しい意味は en（突き出ている）＋rum（頭）である。［中略］</p>
<p>このようにアイヌ語の「岬」には多くの場合、人体名称がつけられているのであった。これは古い時代のアイヌのアニミズム的な考えが地名に反映しているのかもしれない。</p></blockquote>
<p>佐藤氏の解説は慎重だが、このあたりが穏当で正解であると思える。</p>
<p>もともと身体名称（体の部分、人体とは限らない）はあらゆる言語で基本語彙となりやすく、語義の比喩的拡張が容易におこって森羅万象のあらゆるものに適用されるのだ。最近の言語学用語でいえば身体名称は比喩元（ソース・ドメイン）になりやすく、森羅万象をターゲット・ドメインとするのである。「包丁のアゴ」とか、「車の尻」とか、どの言語でも断りもなしに直訳してもたいてい通じるだろう。</p>
<p>そんなわけで私の暫定的な結論としては「襟裳岬」は「岬岬」ではない、としておきたい。語源論は細かいところでこじつけが侵入しているものがたいへん多い（特に「民間語源」という）ので、語源同定には注意が必要だ。「突き出た頭」の「岬」と解釈できるなら、特段の意味の重複は無いことになる。</p>
<p>そもそも「みさき」という語自体が、「〜崎」の「さき」と同様に「先（さき）」に由来するだろう（み［水＝海］＋さき［先］）。したがって重複があるとすれば、そちらの方だ。つまり「襟裳岬」は「先っぽの先っぽ」だ。</p>
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	</item>
		<item>
		<title>固有名詞（人物名）が一般名詞化する</title>
		<link>http://marginaliae.wordpress.com/2011/09/04/%e5%9b%ba%e6%9c%89%e5%90%8d%e8%a9%9e%ef%bc%88%e4%ba%ba%e7%89%a9%e5%90%8d%ef%bc%89%e3%81%8c%e4%b8%80%e8%88%ac%e5%90%8d%e8%a9%9e%e5%8c%96%e3%81%99%e3%82%8b/</link>
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		<pubDate>Sun, 04 Sep 2011 17:12:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>theuthe</dc:creator>
				<category><![CDATA[03 absurdités]]></category>
		<category><![CDATA[04 les langues]]></category>
		<category><![CDATA[English]]></category>
		<category><![CDATA[français]]></category>

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		<description><![CDATA[物語、伝承に登場する人物の名前が、人間の性格や属性を表す一般名詞として使われる例について。たとえば「タルチュフ」である。 この人物はモリエールの出世作、芝居『タルチュフあるいはペテン師』に知られる。タルチュフは偽善者（偽宗教家）であり、金満家オルゴン氏、その母ペルネル夫人に取り入って、一家に食い入ってくる。オルゴンの娘を強引に娶り、財産を収奪し、あまつさえオルゴンの妻にまで手を出そうとする（いずれも最終的には未遂）筋金入りの生臭坊主、いや本当は坊主ですらないのだ。タルチュフの偽善に気付いていた周りのもの、特にオルゴンの妻エルミールは策を巡らして偽善者を罠にかけ、その馬脚を露にするのだが、敵もさる者、すでに手に入れていた財産贈与の書面をたてに執行吏を遣わしてくる。さらにタルチュフはオルゴン一家は陰謀の一端を担っていると国王宛に告発し、一家の破滅は目前となる…… この強烈な登場人物タルチュフの登場以後、タルチュフといえば偽善者、偽善者といえばタルチュフということになった。かくして固有名 Tartufe は一般名詞 tartufe（偽善者）となる。 レトリックの用語では、こうした固有名詞の一般名詞化は「換称 ἀντονομάζειν 」の一分野、換喩 métonymie のひとつである。一部をもって全部の代表とする修辞。これがとりわけ文学の世界でよく起こった。特にフランス文学では顕著である。フランス文学以外については門外漢なので確証はないが、これにはフランス語のとある社会言語学的な特徴が影響を与えているかもしれない。フランスの文章語に顕著な「呼び替え」の習慣のことである。「同じ物・とくに同じ人物」を指す言葉をつぎつぎに差し替えていくという習慣がある。指示対象は同じであっても、表現の上で同じ言葉を繰り返すのを野暮として嫌って、なんとか別の言い方に訴えようとするのである。 かくして、たとえば「クロード・レヴィ＝ストロース」と一度冒頭で使ったならば、そこからは「この人類学者」「この不機嫌なアカデミシャン」「構造主義の創始者」「『悲しき熱帯』の著者」「三人の妻の夫」などと、文を改めるたびに入れ替えていく。（最後の例など大きなお世話だが） 指示対象が「フランス」ならば、「この国」「人権思想の祖国」「フランク王国の末裔」「この六角形」などと言い換えていく。この「六角形」は非常にポピュラーな言い換えだから、週末の新聞を目を皿にして探せば一つか二つは必ず見つかるだろう。 相手が「日本」ならば「日出ずる処 (Le Soleil Levant)」から始まって「長く展びる列島 (Archipel)」「極東 (Extrême-Orient) の島」「不思議の島 (les îles mystérieuses)」「世界三番目の経済圏」「世界のオタクのメッカ」などと文脈に合わせて定番が並ぶ。（最後の例など大きなお世話だが） つまりフランス語の（言語内的な問題というよりは）運用上の特質として、何かをその属性でズバッと切るということが奨励されていることになる。なにかと偏見と視点の固定化を招きやすい、問題含みの習慣でもあるが、これが逆のモーメントで働けば容易に「固有名詞の一般名詞化」につながる。そんなわけで「タルチュフ＝偽善者」に準じて、登場人物がその属性の代表例となることにはじまる「一般名詞化」の例はフランス文学、とくに十八世紀戯曲に多いのだが、それも故無きとはしない。 ただし、この類いでおそらく最も人口に膾炙した例はイギリス（アイルランド）文学、ブラム・ストーカーの「ドラキュラ＝吸血鬼」であろう。これが一登場人物の名前に過ぎなかったことなど一般にはとうに忘れ去られ、吸血鬼（ヴァンパイア）を象徴するキャラクター、いやさ吸血鬼そのもののことと成り果てている。日本語ならば「土左衛門＝水死体」あたりが好例だろうか。享保年間の相撲取り、成瀬川土左衛門のあんこ体形に由来するとされ、これなども完全に一般名詞化している。 順不同で類例を挙げてみる。 プティ・ジャン Petit-Jean 「＝悪賢い田舎者」。ラシーヌの『訴訟狂』の登場人物の名前から。 ソジー sosie 「＝瓜二つの人」。モリエールなどの喜劇の奴隷の名前に由来するが、これはローマ古拙期喜劇プラウトゥス『アンピトルオー』にまで遡る古典的登場人物の名だ。『アンピトルオー』ではマーキュリーがソジーに化けていた。「本物のソジー」と「マーキュリーが化けたソジー」が二役で、今どちらが舞台にいるのか赤いリボン（など）を付けて区別するという演出で有名である。 ドンファン don Juan 「＝漁色家、女たらし」。これもモリエール。つくづく「キャラ立て」のうまい作家だったのだと思い知る。 ルクレーチア 「＝貞節な妻」。これは古代ローマ王政末期の伝承にある貞淑な妻の偶像である。 フィガロ Figalo 「＝機知に満ちた嘘つき」。ボーマルシェの戯曲に由来する。おなじくモリエールの「スカパン Scapin」、モーツアルトのオペラに名高い「ティル Til Eurenspiegel 」が対抗馬になるだろうか。 アルパゴン harpagon 「＝吝嗇家、守銭奴」。モリエール『守銭奴』の主人公 Harpagon から。これにはイギリス文学から「スクルージ Scrooge」が対抗する。後者はディケンズ『クリスマス・キャロル』に登場する守銭奴である。がめつい奴、というとシェイクスピアのシャイロック『ベニスの商人』も思い浮かぶが、普通名詞として成立するまでは到っていないようだ。 ところでイギリス文学からディケンズは、モリエールに対抗する「換称（アントノマジア）」の海峡向こうの雄と言えそうだ。「ミコーバー Micawber ＝楽天家」（注１）は『デビット・カッパーフィールド』から、「フェイギン fagin [...]<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=marginaliae.wordpress.com&amp;blog=14250802&amp;post=223&amp;subd=marginaliae&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>物語、伝承に登場する人物の名前が、人間の性格や属性を表す一般名詞として使われる例について。たとえば「タルチュフ」である。</p>
<p><span id="more-223"></span>この人物はモリエールの出世作、芝居『タルチュフあるいはペテン師』に知られる。タルチュフは偽善者（偽宗教家）であり、金満家オルゴン氏、その母ペルネル夫人に取り入って、一家に食い入ってくる。オルゴンの娘を強引に娶り、財産を収奪し、あまつさえオルゴンの妻にまで手を出そうとする（いずれも最終的には未遂）筋金入りの生臭坊主、いや本当は坊主ですらないのだ。タルチュフの偽善に気付いていた周りのもの、特にオルゴンの妻エルミールは策を巡らして偽善者を罠にかけ、その馬脚を露にするのだが、敵もさる者、すでに手に入れていた財産贈与の書面をたてに執行吏を遣わしてくる。さらにタルチュフはオルゴン一家は陰謀の一端を担っていると国王宛に告発し、一家の破滅は目前となる……</p>
<p>この強烈な登場人物タルチュフの登場以後、タルチュフといえば偽善者、偽善者といえばタルチュフということになった。かくして固有名 Tartufe は一般名詞 tartufe（偽善者）となる。</p>
<p>レトリックの用語では、こうした固有名詞の一般名詞化は「換称 ἀντονομάζειν 」の一分野、換喩 métonymie のひとつである。一部をもって全部の代表とする修辞。これがとりわけ文学の世界でよく起こった。特にフランス文学では顕著である。フランス文学以外については門外漢なので確証はないが、これにはフランス語のとある社会言語学的な特徴が影響を与えているかもしれない。フランスの文章語に顕著な「呼び替え」の習慣のことである。「同じ物・とくに同じ人物」を指す言葉をつぎつぎに差し替えていくという習慣がある。指示対象は同じであっても、表現の上で同じ言葉を繰り返すのを野暮として嫌って、なんとか別の言い方に訴えようとするのである。</p>
<p>かくして、たとえば「クロード・レヴィ＝ストロース」と一度冒頭で使ったならば、そこからは「この人類学者」「この不機嫌なアカデミシャン」「構造主義の創始者」「『悲しき熱帯』の著者」「三人の妻の夫」などと、文を改めるたびに入れ替えていく。（最後の例など大きなお世話だが）</p>
<p>指示対象が「フランス」ならば、「この国」「人権思想の祖国」「フランク王国の末裔」「この六角形」などと言い換えていく。この「六角形」は非常にポピュラーな言い換えだから、週末の新聞を目を皿にして探せば一つか二つは必ず見つかるだろう。</p>
<p>相手が「日本」ならば「日出ずる処 (Le Soleil Levant)」から始まって「長く展びる列島 (Archipel)」「極東 (Extrême-Orient) の島」「不思議の島 (les îles mystérieuses)」「世界三番目の経済圏」「世界のオタクのメッカ」などと文脈に合わせて定番が並ぶ。（最後の例など大きなお世話だが）</p>
<p>つまりフランス語の（言語内的な問題というよりは）運用上の特質として、何かをその属性でズバッと切るということが奨励されていることになる。なにかと偏見と視点の固定化を招きやすい、問題含みの習慣でもあるが、これが逆のモーメントで働けば容易に「固有名詞の一般名詞化」につながる。そんなわけで「タルチュフ＝偽善者」に準じて、登場人物がその属性の代表例となることにはじまる「一般名詞化」の例はフランス文学、とくに十八世紀戯曲に多いのだが、それも故無きとはしない。</p>
<p>ただし、この類いでおそらく最も人口に膾炙した例はイギリス（アイルランド）文学、ブラム・ストーカーの「ドラキュラ＝吸血鬼」であろう。これが一登場人物の名前に過ぎなかったことなど一般にはとうに忘れ去られ、吸血鬼（ヴァンパイア）を象徴するキャラクター、いやさ吸血鬼そのもののことと成り果てている。日本語ならば「土左衛門＝水死体」あたりが好例だろうか。享保年間の相撲取り、成瀬川土左衛門のあんこ体形に由来するとされ、これなども完全に一般名詞化している。</p>
<p>順不同で類例を挙げてみる。</p>
<blockquote><p>プティ・ジャン Petit-Jean</p>
<p>「＝悪賢い田舎者」。ラシーヌの『訴訟狂』の登場人物の名前から。</p>
<p>ソジー sosie</p>
<p>「＝瓜二つの人」。モリエールなどの喜劇の奴隷の名前に由来するが、これはローマ古拙期喜劇プラウトゥス『アンピトルオー』にまで遡る古典的登場人物の名だ。『アンピトルオー』ではマーキュリーがソジーに化けていた。「本物のソジー」と「マーキュリーが化けたソジー」が二役で、今どちらが舞台にいるのか赤いリボン（など）を付けて区別するという演出で有名である。</p>
<p>ドンファン don Juan</p>
<p>「＝漁色家、女たらし」。これもモリエール。つくづく「キャラ立て」のうまい作家だったのだと思い知る。</p>
<p>ルクレーチア</p>
<p>「＝貞節な妻」。これは古代ローマ王政末期の伝承にある貞淑な妻の偶像である。</p>
<p>フィガロ Figalo</p>
<p>「＝機知に満ちた嘘つき」。ボーマルシェの戯曲に由来する。おなじくモリエールの「スカパン Scapin」、モーツアルトのオペラに名高い「ティル Til Eurenspiegel 」が対抗馬になるだろうか。</p>
<p>アルパゴン harpagon</p>
<p>「＝吝嗇家、守銭奴」。モリエール『守銭奴』の主人公 Harpagon から。これにはイギリス文学から「スクルージ Scrooge」が対抗する。後者はディケンズ『クリスマス・キャロル』に登場する守銭奴である。がめつい奴、というとシェイクスピアのシャイロック『ベニスの商人』も思い浮かぶが、普通名詞として成立するまでは到っていないようだ。</p></blockquote>
<p>ところでイギリス文学からディケンズは、モリエールに対抗する「換称（アントノマジア）」の海峡向こうの雄と言えそうだ。「ミコーバー Micawber ＝楽天家」（注１）は『デビット・カッパーフィールド』から、「フェイギン fagin ＝子供に悪さを教え込む人」は『オリバー・トゥイスト』から、と一般名詞化ぎりぎりまで来ている登場人物が引きも切らない。</p>
<p>なにか「換称」の対象となるには俗受けのする作風が必須となるような気がする。しからば俗受けの点では人語に落ちないシェイクスピアにあまり「換称」の類例を見ないのは興味深いことだ。「オセロー＝嫉妬深い夫」「リア＝猜疑心に囚われた父」「マクベス＝予言に囚われた男」とか、ネタには事欠かないのになぜか「換称」の対象には成りえていない。</p>
<blockquote><p>パパラッチ paparazzi</p>
<p>「＝のぞきや」。フェリーニの『甘い生活』に登場するゴシップ・カメラマン、パパラッツォ（Paparazzo）に由来し、複数形に変化させたもの。したがって一人のパパラッチはむしろ「パパラッツォ」とすべきかもしれない。余談であるが、今（2011年9月）ウィキペディアで見たら、あらすじの紹介に「ゴシップ新聞社の記者でパパラッチのマルチェロは」とあった。この映画から出来た言葉でこの映画を説明するというのは面白いアナクロニスムだと思う。マルチェロの同僚パパラッツォのことはどう紹介すればいいのだろうか。やはり「パパラッチのパパラッツォは」ということになるしかない。</p>
<p>これが許されるのなら「タルチュフは筋金入りのタルチュフであり……」とか「名高いドン・ファンのドン・ファンは……」とか、そういうのも有りということになる訳で、なにやらおかしなことになっていきそうな気がする。</p>
<p>ロリータ Lolita</p>
<p>「＝妖婦ならぬ妖少女」。言わずと知れたナボコフ『ロリータ』だが、これはドラキュラなみの浸透度のある「換称」であろうか。こんにち「ロリータ」は善かれあしかれ普通名詞に登録済みだろう。「ロリ」とすれば、現代日本語では形容詞・接頭辞としても生産性がある（新語の基盤と成りうる）。</p>
<p>太公望</p>
<p>「＝釣り人」。鮎解禁の時節などに新聞の見出しに踊る。三年寝太郎のような、大望と能力がありながら一見怠惰に見える人物の「換称」としても使えそうな気がする。</p></blockquote>
<p>落ちを付けるために、ドラキュラや土左衛門以上の定着度をもった古今東西の「換称の決定版」に触れておこう。</p>
<blockquote><p>包丁<br />
「＝包丁」。</p></blockquote>
<p>何を言っているかというと、もとは包丁というのは『荘子』に登場する「包丁（ほうてい）」と呼ばれる、刃物さばきで魏の恵王を感嘆させた料理人のことだそうだ。ただし「包丁」は固有名（人物名）ではなく役職（包＝台所を・丁＝あずかるもの）とするのが通説であるようで、厳密に言えば「固有名→一般名詞」という今回取り扱ったシリーズに連なるものではない。だが定着度合いと「人物→道具名」という変化がかなり際立ったものなので付言せずにはいられなかった。</p>
<p>−−</p>
<blockquote><p>（注１）</p>
<p>ところでミカウバーといえば「固有名」が世界で一番よく知られたギターの名前と言えるかも知れない。ローリング・ストーンズのキース・リチャーズの使う、五本弦のテレキャスターが「ミカウバー」と呼ばれている。</p>
<p>B.B.キングの「ルシール」（レスポール ES-335）、クラプトンの「ブラッキー」（ストラトキャスター）、スティーヴィー・レイ・ヴォーンの「ナンバーワン」（これもストラト）などと並んで、個体同定されている珍しいギターの一つ。</p>
<p>五弦オープンGのチューニングに設えられてあり、全部開放弦でかき鳴らすだけで G が鳴るという「便利」なギターで、その様子は「ホンキー・トンク・ウィメン」のイントロでよくわかる。キースが怠け者でフレットも押さえられないほど耄碌している、という訳ではなく、どこも押さえなくても弾けばイントロのリフになるように工夫してあるのだ。</p>
<p>私は「ミカウバー」と聞けば、「楽天家」というよりも先に、この物ぐさギター（<a href="http://www.rollingstones.com/photo/keith-micawber">弾いている姿</a>）のことが思い浮かぶ。</p></blockquote>
<br />  <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gocomments/marginaliae.wordpress.com/223/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/comments/marginaliae.wordpress.com/223/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godelicious/marginaliae.wordpress.com/223/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/delicious/marginaliae.wordpress.com/223/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gofacebook/marginaliae.wordpress.com/223/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/facebook/marginaliae.wordpress.com/223/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gotwitter/marginaliae.wordpress.com/223/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/twitter/marginaliae.wordpress.com/223/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gostumble/marginaliae.wordpress.com/223/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/stumble/marginaliae.wordpress.com/223/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godigg/marginaliae.wordpress.com/223/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/digg/marginaliae.wordpress.com/223/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/goreddit/marginaliae.wordpress.com/223/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/reddit/marginaliae.wordpress.com/223/" /></a> <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=marginaliae.wordpress.com&amp;blog=14250802&amp;post=223&amp;subd=marginaliae&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>Grand-mère の grand-</title>
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		<pubDate>Fri, 26 Aug 2011 14:41:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>theuthe</dc:creator>
				<category><![CDATA[04 les langues]]></category>
		<category><![CDATA[français]]></category>

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		<description><![CDATA[&#160; grand の後に女性名詞がついて複合語となっているが、grande と女性形にはしないケースについてまとめ。 grand-mère の grand は形容詞の性数一致の観点からすると、性に一致しないながら数には一致する（des grands-mères）。性については不変化の「接頭辞扱い」でありながら、数については「形容詞扱い」のごとくに一致することになる。いわば複合語構成要素としてのステイタスと、形容詞としてのステイタスの狭間に揺らいでいる。 問題：類例は在るか。またそれら類例においては件の性数一致に関してはどうなっているのか。 実情はむちゃくちゃで規則に整理するには例が足りなかったが、時間の無い人向けの結論を始めに書いておく。原則としては： 性の一致はしない、数の一致についてはどちらでもよい。書くなら複数の時には s は付けておいたほうが無難。 Grand-maman の複数形 この grand はもう形容詞というよりは、「一世代上の」というほどの意味の接頭辞と捉えられており複合語を作る。当然女性名詞の前に付くこともあるが、その際 grand の部分が不変とされる。もとの形容詞としての性質を失っているのだ。代表例は「おばあちゃん」： grand-maman「おばあちゃん」 grand-mère「祖母」 grand-tante「大おば」 これらのケースで grand が不変というのはたいていの辞書に断りがある。ところがである。その割には複数形を作るとなると grands-pères や grands-parents と同様に、数の一致をしている節があるのだ： grands-mères grands-mamans grands-tantes となる。性の一致はしないのに、数の一致はするという不均衡。 ロワイヤル仏和では grand-tante の複数形に関しては「~(s)-~s」との指示があり、つまり grands-tantes と grand-tantes の2つの形があるという含みがあるが、これは本当か？　おそらく上のどの単語でも「~(s)-~s」とするのが穏当ではないだろうか。 ちなみに19世紀リトレ（Dictionnaire de la langue française d&#8217;Émile Littré, version GNU)では grand’tante の複数形を grand’tantes とし、合わせて [...]<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=marginaliae.wordpress.com&amp;blog=14250802&amp;post=195&amp;subd=marginaliae&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>&nbsp;</p>
<p>grand の後に女性名詞がついて複合語となっているが、grande と女性形にはしないケースについてまとめ。</p>
<p>grand-mère の grand は形容詞の性数一致の観点からすると、性に一致しないながら数には一致する（des grands-mères）。性については不変化の「接頭辞扱い」でありながら、数については「形容詞扱い」のごとくに一致することになる。いわば複合語構成要素としてのステイタスと、形容詞としてのステイタスの狭間に揺らいでいる。</p>
<blockquote><p>問題：類例は在るか。またそれら類例においては件の性数一致に関してはどうなっているのか。</p></blockquote>
<p><span id="more-195"></span>実情はむちゃくちゃで規則に整理するには例が足りなかったが、時間の無い人向けの結論を始めに書いておく。原則としては：</p>
<blockquote><p>性の一致はしない、数の一致についてはどちらでもよい。書くなら複数の時には s は付けておいたほうが無難。</p></blockquote>
<p><strong>Grand-maman の複数形</strong></p>
<p>この grand はもう形容詞というよりは、「一世代上の」というほどの意味の接頭辞と捉えられており複合語を作る。当然女性名詞の前に付くこともあるが、その際 grand の部分が不変とされる。もとの形容詞としての性質を失っているのだ。代表例は「おばあちゃん」：</p>
<ul>
<li>grand-maman「おばあちゃん」</li>
<li>grand-mère「祖母」</li>
<li>grand-tante「大おば」</li>
</ul>
<p>これらのケースで grand が不変というのはたいていの辞書に断りがある。ところがである。その割には複数形を作るとなると grand<strong>s</strong>-père<strong>s</strong> や grand<strong>s</strong>-parent<strong>s</strong> と同様に、数の一致をしている節があるのだ：</p>
<ul>
<li>grand<strong>s</strong>-mère<strong>s</strong></li>
<li>grand<strong>s</strong>-maman<strong>s</strong></li>
<li>grand<strong>s</strong>-tante<strong>s</strong></li>
</ul>
<p>となる。性の一致はしないのに、数の一致はするという不均衡。</p>
<p>ロワイヤル仏和では grand-tante の複数形に関しては「~(<strong>s</strong>)-~<strong>s</strong>」との指示があり、つまり grand<strong>s</strong>-tante<strong>s</strong> と grand-tante<strong>s</strong> の2つの形があるという含みがあるが、これは本当か？　おそらく上のどの単語でも「~(<strong>s</strong>)-~<strong>s</strong>」とするのが穏当ではないだろうか。</p>
<p>ちなみに19世紀リトレ（<em>Dictionnaire de la langue française d&#8217;Émile Littré</em>, version GNU)では grand’tante の複数形を grand’tante<strong>s</strong> とし、合わせて grand’mère の項では：</p>
<blockquote><p> Sur grand&#8217;pour grande, voy. GRAND, n° 22. L&#8217;erreur qui a mis et maintient une apostrophe à grand en ces cas a produit la ridicule anomalie d&#8217;écrire des grand&#8217;mères sans s, et des grands-pères avec s.</p>
<p>grande の代わりに grand’ とすることについては見出し語 grand の n<sup>o</sup> 22 参照。ここで grand にアポストロフを付けるのは誤用によるもので、それが維持されているのであるが、この誤用のせいで複数の s を欠いた des grand’mères と、s を付した des grands-pères といったような、おかしな不整合が生じてしまっている。</p></blockquote>
<p>と断っている。間違い (erreur) 、奇妙 (ridicule) と手厳しいが、ともかくも grand-mères の形に言及している。</p>
<p><strong>Grand-chose は不変化でありがたい</strong></p>
<p>こうした「揺らぎのある」用法というのは、語学者には頭が痛い。いちおうどちらかに決めておいてもらいたいとおもうのが人情というものだ。常にとは言わずとも、「通常」不変とでも言ってもらえれば有り難い。たとえば grand-chose のケースである。</p>
<ul>
<li>grand-chose 「特筆すべきこと」</li>
</ul>
<p>この grand-chose は普通「特筆すべきことはない」と言う文脈、つまり事実上は否定文にのみ使われる。原則不変である。形容詞を別に付けたければ grand-chose de adj. の形で付け、形容詞部分は男性形に一致する：</p>
<ul>
<li>Il n’y a pas grand-chose de nouveau. 「目新しいことは大してない」</li>
</ul>
<p>まことにさっぱりした扱いで有り難い。「特筆すべきこと」がたんとあった場合はどう言うのか、というような茶々を入れたくなる向きもあるだろうが（その場合 des grand-choses なのか des grands-choses なのか、はたまた des grandes-choses は在り得るか？* ）、ここを食い下がってもインフォーマントに煩がられるばかりである。</p>
<p>類例に、こちらはハイフンでつながない形だが、 quelque chose がある。上の例文と共にロワイヤル仏和から：</p>
<ul>
<li>Dis-moi quelque chose de gentil. 「なにか優しいことを言ってちょうだい」</li>
</ul>
<p>変わらないなら変わらないで一貫しているのなら扱いやすい。</p>
<p>また、形容詞時代と同様にきっちり変化・一致してくれれば、それはそれで文句はない。「大公・大公妃（女大公）」のケースでは、前身の形容詞のケースとまったく同じく律儀に性数一致を一貫する。これはこれで納得がいく。</p>
<ul>
<li>grand-duc / grande-duchesse</li>
<li>grands-ducs / grandes-duchesses</li>
</ul>
<p><strong>人間ばかりと限らない</strong></p>
<p>さてこの grand- が使われるのは「一世代上の」という「人間に係る」ケースばかりには留まらない。人間以外を相手にすると「格が上の」といったほどの接頭辞として扱われる。女性名詞と複合した例とその複数形をロワイヤル仏和の記述から挙げてみる（アルファベット順）：</p>
<ul>
<li>grand-chambre 「高等法院大審部」 pl. grand(s)-chambres</li>
<li>grand-croix 「最高十字勲章」 pl. grands-croix</li>
<li>grand-garde 「前哨」 pl. grand-gardes</li>
<li>grand-messe 「歌ミサ」 pl. grands-messes</li>
<li>grand-peine 「かろうじて」 これは副詞化したもの。したがって当然不変化、複数形など無い。</li>
<li>grand’rue / grand-rue 「メインストリート」 pl. grands-rues</li>
<li>grand-voile 「主帆（メインマストの一番下の帆）」 pl. grand(s)-voiles</li>
</ul>
<p>いずれも女性名詞と複合した例だが、grand の性の一致はいずれも行わない。しかし数の一致については都合三種類の取り扱いがある。</p>
<ol>
<li>不変化固定 grand-gardes</li>
<li>揺らぎあり grand(s)-chambres, grand(s)-voiles</li>
<li>数を一致 grands-croix, grands-messes, grands-rues</li>
</ol>
<p>さてこれは本当か？　他の辞書で検証してみると、どうも全部「揺らぎあり」に分類しておいたほうが良さそうな感じがする。</p>
<p>grand-croix について、リトレ（上掲）と TLFI (<em>Le Trésor de la Langue Française Informatisé</em>) で異同あり</p>
<ul>
<li>19世紀リトレ des grands-croix</li>
<li>TLFI des grand-croix</li>
</ul>
<p>grand-voile はアカデミー・フランセーズ版 (<em>Dictionnaire de l’Académie Française</em>, 9<sup>e</sup> édition)で数の一致せず</p>
<ul>
<li>Académie 9<sup>e</sup> grand-voiles</li>
</ul>
<p>grand-messe については、TLFI とアカデミー９で異同あり</p>
<ul>
<li>TLFI des grand-messes</li>
<li>Académie 9<sup>e</sup> Grand-messes</li>
</ul>
<p><strong>結論</strong></p>
<p>性の一致はしない、数の一致についてはどちらでもよい。</p>
<p>もともと誤用の定着と見られており（リトレ）、読解の上ではどちらも出てくる。書くなら s は付けておいたほうが無難。では新語を作るとしたらどうなるだろうか。その場合は des grandes-duchesses のごとくにフルに一致しておくのがよさそうだ。Grande-Bretagne, Grande-Grèce, Grande-Terre などでは複合語でも女性形に一致している。複数形なら grandes- となるだろう。</p>
<p>＿＿＿＿</p>
<p>＊de grands-choses / de grande-choses / de grandes-choses の可能性について（2011/09/23 追記）：<br />
フランス語文法の基礎項目の一つに「形容詞が前に着いている語には、複数不定冠詞 des のかわりに de を用いる」という有名な anomalie がある。（無論それなりの説明はあるが）</p>
<blockquote><p><em><strong>des</strong> hommes grands</em>「大きい男達」</p>
<p><em></em><em><strong>de</strong> grands hommes</em>「偉人たち」</p></blockquote>
<p>形容詞が前に着くときと後ろに着くときでは、それぞれニュアンスが生じるという別個の大問題もほの見えるが、それは別稿の主題としよう。ともかく上の「形容詞の前置にともなう不定冠詞 des の使用の禁止」をこの「接頭辞とも形容詞ともとれる微妙な grand-」に適用した場合、上のごとく de grands-choses / de grande-choses / de grandes-choses という形ができる可能性がある。はたしてどの形が現行優勢なのか、google で調べてみようと思った。全文完全一致で検索してみたが、意味のある数字は得られなかった。</p>
<blockquote>
<table cellspacing="0" cellpadding="0">
<tbody>
<tr>
<td valign="middle">des grand-choses</td>
<td valign="middle">58</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">des grands-choses</td>
<td valign="middle">2060</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">des grandes-choses</td>
<td valign="middle">7280</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">de grand-choses</td>
<td valign="middle">16400</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">de grands-choses</td>
<td valign="middle">325</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">de grandes-choses</td>
<td valign="middle">104000</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">de grand-chose</td>
<td valign="middle">67400</td>
</tr>
</tbody>
</table>
</blockquote>
<p>上は参考までに。ハイフンの有無が無視されてしまいデータにならない。de grandes choses のような、つまりハイフン無しの形がごっそり票を獲得しているはずで、この数字からは何も云々できまい。ちなみに引用符でくくった検索結果で、ハイフン有りと無しのヒット数を比較してみると：</p>
<blockquote><p>&#8220;de grands-choses&#8221; &#8211; &#8220;de grands choses&#8221; = 0</p>
<p>&#8220;de grande-choses&#8221; &#8211; &#8220;de grande choses&#8221; = 0</p>
<p>&#8220;de grandes-choses&#8221; &#8211; &#8220;de grandes choses&#8221; = 1000</p></blockquote>
<p>となった。どういう仕様なのか判らないが、最後の例だけなぜ違いが出るのか、やけに割り切りの良い数字も怖い。</p>
<p>いずれにしても、ハイフンの有無を無視するのは「親切設計」なんだろうけど、「ハイフンの有無でどういう差が出来るかを調べたい」時には迷惑な仕様だ。</p>
<br />  <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gocomments/marginaliae.wordpress.com/195/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/comments/marginaliae.wordpress.com/195/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godelicious/marginaliae.wordpress.com/195/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/delicious/marginaliae.wordpress.com/195/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gofacebook/marginaliae.wordpress.com/195/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/facebook/marginaliae.wordpress.com/195/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gotwitter/marginaliae.wordpress.com/195/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/twitter/marginaliae.wordpress.com/195/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gostumble/marginaliae.wordpress.com/195/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/stumble/marginaliae.wordpress.com/195/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godigg/marginaliae.wordpress.com/195/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/digg/marginaliae.wordpress.com/195/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/goreddit/marginaliae.wordpress.com/195/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/reddit/marginaliae.wordpress.com/195/" /></a> <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=marginaliae.wordpress.com&amp;blog=14250802&amp;post=195&amp;subd=marginaliae&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>「まどか」は女の子なのか、男の子なのか、何人いるのか？</title>
		<link>http://marginaliae.wordpress.com/2011/03/10/%e3%80%8c%e3%81%be%e3%81%a9%e3%81%8b%e3%80%8d%e3%81%af%e7%94%b7%e3%81%ae%e5%ad%90%e3%81%aa%e3%81%ae%e3%81%8b%e3%80%81%e4%bd%95%e4%ba%ba%e3%81%84%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%8b%ef%bc%9f/</link>
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		<pubDate>Thu, 10 Mar 2011 14:36:28 +0000</pubDate>
		<dc:creator>theuthe</dc:creator>
				<category><![CDATA[03 absurdités]]></category>
		<category><![CDATA[04 les langues]]></category>
		<category><![CDATA[français]]></category>
		<category><![CDATA[latin]]></category>

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		<description><![CDATA[アニメや漫画の世界では「男女の取り違え」が酷すぎる。いやなに「男の娘」とか「男女間の魂交換エピソード」とかの話ではなく、ジェンダー論でもなく、単に語学的な話として。 『魔法少女まどか☆マギカ』が話題である なぜ私がこのアニメについて関心をもったかはここでは語らないが、私の直接の知り合いならキャラクター一覧を見るだけで「ああ、それでか」と納得してくれるだろう。例によって私が関心を持っているのはまずは「名前」だけである。したがってこの作品の中身については今のところ語ることがない。というより、ここフランスでは普通の方法ではまだ視聴できないのだ。ニコニコ動画などにも公式配信されているということで、入り口までは行ってみたのだが海外からは見れないというような話なのですぐに諦めた。おそらくマニアの友人がすぐにDVDを貸してくれるだろう。 なんでもかつてのエヴァンゲリオン並の話題になっているということで早く見てみたいものだ。ともかく議論する欲望をかき立てるタイプの作品であるのは確からしい。さて、それではウェブ上にさまざまな議論を巻き起こしている作品について、見てもいないのに私は何を問題にしようとしているのか。それは掲題の通り、誰かに「まどか」はいったい男の子なのか、女の子なのか、そして何人いるのか、聞いてみたいと思ったからである。ちょっと露悪的だろうか？　判ってて訊いているのはあからさまだけど。 Puella Magi は「魔法少女」なの？ 『魔法少女まどか☆マギカ』の正式タイトルと思しきものには Puella Magi Madoka Magica という副題みたいなものが付いている。Puella Magi って何だ？　Magica って何だ？　というのはすでに頻出質問の扱いらしく、誰かが聞けば「Puella Magi はラテン語で『魔法少女』の意味である」とか「Magica はラテン語であり、英語で言うと Magical 」とか、答えがすぐに返ってくる。 しかし残念ながら前者の Puella Magi は「魔法少女」という意味にはならない。ちょっと野暮だがこうした間違いがあまり流布すると今後のためにならないので、ラテン語の教師（休職中だが）としては一言いっておかねばならない。啓蒙のため、丁寧に説明しておこう。ここから言っておかなきゃ駄目なのか、という感じではある。とは言うもののエントリーの性質上、うんと若い人が紛れ込んでこないとも限らない。そうした人の中で、ここで始めてラテン語と出会うという人もいないとも限らない。さらには、そうした人の中で何かの間違いでラテン語について俄然関心を強くするに至り、しこうして西洋古典学の新たな担い手が誕生しないとも限らない。だから丁寧にいこう。 ミニ・ラテン語講座（名詞・形容詞編） 前提条件１：ラテン語には男性名詞、女性名詞、中性名詞の別がある。たとえば Puer プエル「少年」は男性名詞。Puella プエッラ「少女」は女性名詞。dōnum ドーヌム「贈り物」は中性名詞。 前提条件２：名詞を修飾する形容詞も、名詞の性に伴って変化する。これを「名詞に一致する」とも言う。たとえば形容詞 magus ならば Puer magus プエル・マグスで「魔法少年」、Puella maga プエッラ・マガで「魔法少女」、dōnum magum ドーヌム・マグムで「魔法の贈り物」といった具合。もう何が言いたいかは大体お判りになったろう。 前提条件３：名詞、形容詞はさらに文中での働きを語尾変化で区別する。主語に使うとき（主格）、目的語に使うとき（対格）と言ったように、それぞれ文中の機能によって形が変わる。 その変化のパターンを覚えておかねばならないわけだが、表にすると次のようになる。まずは magus が「魔術師、魔法使い」という意味の名詞だとした場合。（表中、横棒の上に付いた母音は長母音を表す） . 単数 . 複数 . . 男性 女性 男性 女性 [...]<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=marginaliae.wordpress.com&amp;blog=14250802&amp;post=173&amp;subd=marginaliae&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>アニメや漫画の世界では「男女の取り違え」が酷すぎる。いやなに「男の娘」とか「男女間の魂交換エピソード」とかの話ではなく、ジェンダー論でもなく、単に語学的な話として。</p>
<p><strong><span id="more-173"></span>『魔法少女まどか☆マギカ』が話題である</strong></p>
<p>なぜ私がこのアニメについて関心をもったかはここでは語らないが、私の直接の知り合いならキャラクター一覧を見るだけで「ああ、それでか」と納得してくれるだろう。例によって私が関心を持っているのはまずは「名前」だけである。したがってこの作品の中身については今のところ語ることがない。というより、ここフランスでは普通の方法ではまだ視聴できないのだ。ニコニコ動画などにも公式配信されているということで、入り口までは行ってみたのだが海外からは見れないというような話なのですぐに諦めた。おそらくマニアの友人がすぐにDVDを貸してくれるだろう。</p>
<p>なんでもかつてのエヴァンゲリオン並の話題になっているということで早く見てみたいものだ。ともかく議論する欲望をかき立てるタイプの作品であるのは確からしい。さて、それではウェブ上にさまざまな議論を巻き起こしている作品について、見てもいないのに私は何を問題にしようとしているのか。それは掲題の通り、誰かに「まどか」はいったい男の子なのか、女の子なのか、そして何人いるのか、聞いてみたいと思ったからである。ちょっと露悪的だろうか？　判ってて訊いているのはあからさまだけど。</p>
<p><strong>Puella Magi は「魔法少女」なの？</strong></p>
<p>『魔法少女まどか☆マギカ』の正式タイトルと思しきものには Puella Magi Madoka Magica という副題みたいなものが付いている。Puella Magi って何だ？　Magica って何だ？　というのはすでに頻出質問の扱いらしく、誰かが聞けば「Puella Magi はラテン語で『魔法少女』の意味である」とか「Magica はラテン語であり、英語で言うと Magical 」とか、答えがすぐに返ってくる。</p>
<p>しかし残念ながら前者の Puella Magi は「魔法少女」という意味にはならない。ちょっと野暮だがこうした間違いがあまり流布すると今後のためにならないので、ラテン語の教師（休職中だが）としては一言いっておかねばならない。啓蒙のため、丁寧に説明しておこう。ここから言っておかなきゃ駄目なのか、という感じではある。とは言うもののエントリーの性質上、うんと若い人が紛れ込んでこないとも限らない。そうした人の中で、ここで始めてラテン語と出会うという人もいないとも限らない。さらには、そうした人の中で何かの間違いでラテン語について俄然関心を強くするに至り、しこうして西洋古典学の新たな担い手が誕生しないとも限らない。だから丁寧にいこう。</p>
<p><strong>ミニ・ラテン語講座（名詞・形容詞編）</strong></p>
<blockquote><p>前提条件１：ラテン語には男性名詞、女性名詞、中性名詞の別がある。たとえば Puer プエル「少年」は男性名詞。Puella プエッラ「少女」は女性名詞。dōnum ドーヌム「贈り物」は中性名詞。</p>
<p>前提条件２：名詞を修飾する形容詞も、名詞の性に伴って変化する。これを「名詞に一致する」とも言う。たとえば形容詞 magus ならば Puer magus プエル・マグスで「魔法少年」、Puella maga プエッラ・マガで「魔法少女」、dōnum magum ドーヌム・マグムで「魔法の贈り物」といった具合。もう何が言いたいかは大体お判りになったろう。</p>
<p>前提条件３：名詞、形容詞はさらに文中での働きを語尾変化で区別する。主語に使うとき（主格）、目的語に使うとき（対格）と言ったように、それぞれ文中の機能によって形が変わる。</p></blockquote>
<p>その変化のパターンを覚えておかねばならないわけだが、表にすると次のようになる。まずは magus が「魔術師、魔法使い」という意味の名詞だとした場合。（表中、横棒の上に付いた母音は長母音を表す）</p>
<blockquote>
<table cellspacing="10" cellpadding="0">
<tbody>
<tr>
<td valign="middle">.</td>
<td valign="middle">単数</td>
<td valign="middle">.</td>
<td valign="middle"></td>
<td valign="middle">複数</td>
<td valign="middle">.</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">.</td>
<td valign="middle">男性</td>
<td valign="middle">女性</td>
<td valign="middle"></td>
<td valign="middle">男性</td>
<td valign="middle">女性</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">主格</td>
<td valign="middle">magus</td>
<td valign="middle">maga</td>
<td valign="middle"></td>
<td valign="middle"><strong>magī</strong></td>
<td valign="middle">magae</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">呼格</td>
<td valign="middle">mage</td>
<td valign="middle">maga</td>
<td valign="middle"></td>
<td valign="middle">magī</td>
<td valign="middle">magae</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">対格</td>
<td valign="middle">magum</td>
<td valign="middle">magam</td>
<td valign="middle"></td>
<td valign="middle">magōs</td>
<td valign="middle">magās</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">属格</td>
<td valign="middle"><strong>magī</strong></td>
<td valign="middle">magae</td>
<td valign="middle"></td>
<td valign="middle">magōrum</td>
<td valign="middle">magārum</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">与格</td>
<td valign="middle">magō</td>
<td valign="middle">magae</td>
<td valign="middle"></td>
<td valign="middle">magīs</td>
<td valign="middle">magīs</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">奪格</td>
<td valign="middle">magō</td>
<td valign="middle">magā</td>
<td valign="middle"></td>
<td valign="middle">magīs</td>
<td valign="middle">magīs</td>
</tr>
</tbody>
</table>
</blockquote>
<p>つづいて「魔法の」という形容詞だったと考えた場合。</p>
<blockquote>
<table cellspacing="10" cellpadding="0">
<tbody>
<tr>
<td valign="middle">.</td>
<td valign="middle">.</td>
<td valign="middle">単数</td>
<td valign="middle">.</td>
<td valign="middle"></td>
<td valign="middle">.</td>
<td valign="middle">複数</td>
<td valign="middle">.</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">.</td>
<td valign="middle">男性</td>
<td valign="middle">女性</td>
<td valign="middle">中性</td>
<td valign="middle"></td>
<td valign="middle">男性</td>
<td valign="middle">女性</td>
<td valign="middle">中性</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">主格</td>
<td valign="middle">magus</td>
<td valign="middle">maga</td>
<td valign="middle">magum</td>
<td valign="middle"></td>
<td valign="middle"><strong>magī</strong></td>
<td valign="middle">magae</td>
<td valign="middle">maga</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">呼格</td>
<td valign="middle">mage</td>
<td valign="middle">maga</td>
<td valign="middle">magum</td>
<td valign="middle"></td>
<td valign="middle">magī</td>
<td valign="middle">magae</td>
<td valign="middle">maga</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">対格</td>
<td valign="middle">magum</td>
<td valign="middle">magam</td>
<td valign="middle">magum</td>
<td valign="middle"></td>
<td valign="middle">magōs</td>
<td valign="middle">magās</td>
<td valign="middle">maga</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">属格</td>
<td valign="middle"><strong>magī</strong></td>
<td valign="middle">magae</td>
<td valign="middle">magī</td>
<td valign="middle"></td>
<td valign="middle">magōrum</td>
<td valign="middle">magārum</td>
<td valign="middle">magōrum</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">与格</td>
<td valign="middle">magō</td>
<td valign="middle">magae</td>
<td valign="middle">magō</td>
<td valign="middle"></td>
<td valign="middle">magīs</td>
<td valign="middle">magīs</td>
<td valign="middle">magīs</td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle">奪格</td>
<td valign="middle">magō</td>
<td valign="middle">magā</td>
<td valign="middle">magō</td>
<td valign="middle"></td>
<td valign="middle">magīs</td>
<td valign="middle">magīs</td>
<td valign="middle">magīs</td>
</tr>
</tbody>
</table>
</blockquote>
<p>と言った具合に変化するわけだ。太字に注目。</p>
<p>すると Puella magi は奇妙である。magi は普通にとればここでは男性複数（主格）の形なのである。「魔法少女」と言いたければ Puella maga とするのが本当である。Puella <strong>magi</strong> では「少女および魔法使い達（男性）」という意味になってしまう。Puella は女性名詞で単数形、magi の男性名詞複数形とは接合しようもないのである。</p>
<p>かたや Magica が Magical（英）に当たるということは間違ってはいないが、こちらも女性名詞単数形であるということは注意が必要である。だから Madoka <strong>magica</strong> は「魔法少女まどか」で間違いないのだが、これが仮に男の子だったりすると（「誰得」という話ではあるが）、Daisuke <strong>magicus</strong> という形になる。「魔法使いダイスケ」である。便宜上自分の名前を使ったが、書いてみたらしみじみ情けない。</p>
<p>ともかく Puella magi Madoka magica と唱えてみると、ここでは男女の別も、単複の別も目茶苦茶になっている。これがこの世界にはよくあることなのだから困ってしまう。</p>
<p><strong>訳もなく増えていく Magi</strong></p>
<p>この magi を「魔術師」ないし「賢人」の意味の単語であると誤解させる文化的文脈というものが日本のアニメ界には隠然としてあるようなのだ。magi という単語が使われて、もっとも人口に膾炙している例となると、聖書に出てくる東方の「三賢人」trēs magī であろう。magi というこのままの形で英語としても登録されている。ただし発音は「メイジャイ」。複数形であることも通常明記される。ひるがえって性の区別、単複の区別を文法に持たぬ日本人がこの辺を誤解して magi は「魔法使い、賢人」の意味の言葉であると考えるのも不可思議ではない。まさかそこに「男性である、複数である」という情報も含まれているとは思わなくてもあながち不思議ではない。</p>
<p>Magi の誤用例としては、例えば『新世紀エヴァンゲリオン』ではマギ・バルタザール、マギ・メルキオール、マギ・ガスパールという三つセットのスーパーコンピュータが登場する。これが三つセットで「マギ（三賢人）」なのはいいのだ。だが、あくまでも「マギ」は複数形だ。一人ずつなら「マグス」である。一つずつ挙げるならば、その時はマグス・バルタザール、マグス・メルキオール、マグス・ガスパールとしておいて欲しかった。</p>
<p>エヴァンゲリオンにはこうした語学的に無茶苦茶なところがいっぱいあって、それが作中のマクガフィンとして結構有効に機能していた節もある。例えば、一人なのにどうして「サード・チャイルド」ではなくて「サード・チルドレン」なのかとか、日本語では「使徒」と呼んでいる敵が英語表記になると Apostles（使徒）ではなくて Angels（天使）になってしまうのは何故なのかとか、おそらく膨大な議論があったことだろう。十中八九は単なる間違いなのだろうが、この間違いが物語の意図された謎と相俟って、さまざまな解釈のネットワークを織りなしたりしていたのだと思われる。そういう遊び方もあるということだ。</p>
<p>だけど視聴者の側が作中のさまざまな不整合について解釈を戦わせて、かえって遊びとして充実するというのはいいとして、作る側も受け取る側も間違いを間違いとして気がついていないような節が出てくると、こちらとしては茶々もいれたくなろうというものだ。「マギ・バルタザール、マギ・メルキオール、マギ・ガスパール」なんて真剣な顔で言われると（なにしろ天才赤木博士の真顔のお言葉だ）、「全部で何人いるんだよ！」と突っ込みを入れたくもなる。少なくとも全部で六人はいるな、とか。</p>
<p>これは人から言われて気がついたことなのだが、だいたい「新世紀エヴァンゲリオン neon genesis evangelion 」というタイトルにも男女の取り違えがありそうだ。「新たな創世記 (genesis)」というのが「新たな世紀 (century)」とごっちゃになっているのはいいだろう。「記紀」なんていう言葉もあるし「記」と「紀」は互換扱いでもこの際かまわない（本当は大問題だろうけど）。だがギリシャ語と思しきローマ字表記の neon というのはどこに掛かっているのだろう。genesis に掛けたいのだろうが、あいにく genesis は女性名詞なのだ。「新世紀」としたかったのなら <strong>nea</strong> genesis となるのが本当だ。neon genesis evangelion を素直に訳すならば「創世記、新エヴァンゲリオン」あるいは「創世記、新しい福音」と言ったところか。これはこれで作品の内容にかえってフィットしそうだから困ったものだ。エヴァンゲリオンについては、なにか不正解の魅力とでも言いうるものが働いている。</p>
<p><strong>珍しくも正しい使い方</strong></p>
<p>ここは magi の話に戻ろう。『魔法先生ネギま』の主人公、ネギ・スプリングフィールド君は「マギステル・マギ」を目指しているのだということだが、ここでの Magister magi は意味が通る。magi が属格（名詞と名詞をつなぐ格。「〜の」みたいな役割）と解釈されうるからだ。Magister magi は「魔法使いのマスター」つまり「魔法使いの中の魔法使い」と言ったほどの意味として、作中の用語法と整合性を持つ。「ネギま」には語学ブレーンが付いているみたいだが、そこまでやらなくても皆こういう手法を真似すればいいのにと思う。つまり知ってそうな奴にちょっと聞いておけば済むことだ。</p>
<p>こうした例外を除くと、ともかく日本のアニメ・漫画界隈では、男女、単複の間違い競争をやっているような具合で、いたるところでへんてこな言葉に出会うことになる。</p>
<p>今回はフランス語の「男女の問題」のみに絞ってちょっと論ってみよう。</p>
<p><strong>意図せざる男の娘たち</strong></p>
<blockquote><p>「祥子さまは、その紅薔薇（ロサ・キネンシス）さまの妹（プティ・スール）だった。」</p></blockquote>
<p>高名な百合小説『マリア様がみてる』に登場する決定的とも言える誤用。原文では丸括弧内はルビである。ちゃんと「プティット・スール <strong>petite</strong> sœur」と言ってあげて欲しかった。言うまでもなくフランス語の形容詞は名詞に合わせて変化する。えてして発音も変わる。プティ petit だけじゃ男の子のことを言っているみたいだ。最近では男女倒錯型のお話が市民権を得つつあり、女装少年「男の娘」もひっぱりだこの様相だというのにである。そこにプティ・スールだのと出てくると、どうしたってこちらは「男の妹さん」のことかと……思わざるを得ない。「プティ・スール・アン・ブゥトン <strong>petit</strong> sœur en bouton」すなわち「まだつぼみのままの男の妹さん」という表現も頻出する。これが花開いた日にはいったいどうなってしまうのか今から心配である。タイの曲がりなんか気にしている場合ではない。</p>
<p>あと「お姉さま（グラン・スール）」ともあった。これもできたら <strong>grande</strong> sœur グランド・スールとしておきたい。<strong>grand</strong> sœur なんて聞くと……やっぱり「男のお姉さま」しか思い浮かばない。「花開いちゃった」方の……。ていうか、グランとか要らないだろう、言う必要ないんじゃないか。</p>
<p>（余談だがいま「プティ・スール」を Google で検索しようとしたら、検索フィールドの検索語予測に一発で「ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン・プティ・スール」が出てきた。すごい認知度だ。これつていてラテン語とフランス語をごっちゃにしていることを問題にしている議論もあるようだが、筆者はそこには不自然さを全く感じない。よくあることよ、それは。そもそも「ロサ・キネンシス」はおそらく薔薇の品種で、要するにラテン語というより「学名」でしょう。）</p>
<p>もともとこれは、ちょっと奇妙な世界観と、耽美で静謐な舞台で繰り広げられるプラトニック百合の魅力の物語である。それなのに私の脳裏では、すでに問題の学舎の中を「男の姉妹」が行き交っている。</p>
<p>同じ間違いが見られるのが、キヅキアキラ『モン・スール』。妹さんの早すぎる恋に悩む兄が登場する。モン・スールとは彼の妹のことを意図していると読める。しかし、ここは「マ・スール <strong>ma</strong> sœur 」としておいて欲しかった。モン・スールは <strong>mon</strong> sœur と綴るのだろう。mon は男性名詞（および母音始まりの語）に掛ける形である。<strong>mon</strong> frère （私の兄／弟）という風に使うのだ。モン・スールでは、やはり「僕の男の妹」が思い浮かんでしまう。キヅキアキラ氏は実力を認められた漫画家で、『モン・スール』はじめ初期作も軒並み新装復刊されている。そこでタイトルも直してしまうべきだったのではないか。</p>
<p><strong>直しすぎると薮蛇だ</strong></p>
<p>こうした間違いは、いわば端的に文法的な間違いなので機会があれば正したほうがいいとは思う。</p>
<p>もっとも名詞の性・数にこだわりすぎるとかえって事をこじらせることもある。直しすぎもまずいことがあるのだ。最後にフランス語に事寄せて、少し語学的な主題を深めておこう。</p>
<p>私はとある学会の仕事で、例会の司会進行が女性だったので広告と議事に modératrice （modérateur「司会進行」の女性形）の語を使ってみたら、ここは男性形のままの方がよいと本人から指摘を受けた。これは「役割」の問題だから、現実世界の指示対象が実際に女性であるかにかかわりなく、modérateur を使うのだと。ここで敢えて女性形にすると若干 péjoratif であると、つまり軽視しているような文効果が生じるというのが、説明のあらましであった。女性であっても professeur と呼び、ことさらに女性形を用いないのと同じことだとの話である。男女共同参画が厳しい社会ルールともなっているフランス、その一方で男性名詞と女性名詞を厳しく区別し続けるフランス、この二面性の合間で男女の呼称の揺れ動きは相当に微妙な問題となる。ことほどさように難しい問題が含まれた話題ではある。</p>
<p><strong>男でも Elle とはこれ如何に</strong></p>
<p>フランス語は名詞に男女の区別があると言っても、それは現実の性別に厳格に従うものではなく、あくまでも文の中で文脈に応じて区別されていくものなのだ。甚だしい例としては、指しているのが男性であっても、cette personne「この人物」と女性名詞で受けた場合、さらに後続する文で elle と受けることがある。サンテグジュペリ『星の王子さま』の序文から引く：</p>
<blockquote><p><strong>cette grande personne</strong> habite la France où <strong>elle</strong> a faim et froid. <strong>Elle</strong> a besoin d&#8217;être consolée.</p>
<p>この大人の人はフランスに住んでいて、お腹を減らしていて、寒い思いをしています。慰めてあげなくてはならないのです。</p></blockquote>
<p>Elle と受けたのは、現実の指示対象としては Léon Werth 氏。男性である。</p>
<p>Elle はもちろん普通に言えば「彼女」の意味の代名詞だが、ここでは指示対象は男性であるにもかかわらず、前出の personne（女性名詞）を受けて elle と女性形に一致しているのである。すなわち、ここでの elle は personne の性に一致しているだけであって、「彼女」の意味ではない。むしろ「この人」ぐらいの意味で使われているのである。無論、ここで指示対象が現実に男性であることにより意識が向かえば、personne の直後で男性形を使い、il「彼」と受けることも出来る。この場合 il は直前の personne は無視して、指示対象自体に呼応する代名詞としてとらえられる。</p>
<p><strong>男女の別を過剰に適用すると不自然な例もある</strong></p>
<p>『カード・キャプターさくら』や『コレクター・ユイ』などは、女の子が主人公だからといって「カード・キャプトレス」、「コレクトレス・ユイ」とする意味があるだろうか。私ならそうするだろうが、これは少しやり過ぎということになるかもしれない。特に「コレクター」なら意味がかなりの人達にとって明確だろうが「コレクトレス」にしてしまっては、日本人としては少し意味がぼける気がする。こうした案配も、使う形を決めるための要因に成りうるということだろう。ところで「コレクター・ユイ」は何を「コレクト」しているのだろうか。「カード・キャプター」はカードを集めているのは自明だが、「コレクター」だけでは判らない。この辺の作品については、子供がスーパーの文房具コーナーで塗り絵を読んでいたのを通しての知識しか無いので、作中の事情についての知識はないのだ。</p>
<p>同様に柴田ヨクサル『エア・マスター』も主人公が女性であるということをもって「エア・ミストレス」とするには当たらないだろう。これは作中の事情からしても不適だろうと感じる。「エア・ミストレス」ではちょっとシナが出てくるというか、色っぽい感じがするというか、よもや空中を駆け回って男どもをなぎ倒していく格闘少女の話だとは想像できまい。ここでは『エア・マスター』という、私には明瞭に男性的に聞こえる響きがかえってタイトルとしての効果を上げている。「空中の支配者」の物語である。この「マスター」はもはや男女の別を超越した「超性名詞」として機能している。</p>
<p>第一かりに「エア・ミストレス」としてしまうと、なんだか「空気の入った愛人」の事みたいに聞こえる。それはやっぱりまずいだろう。</p>
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		<title>フランスの奇妙な地名</title>
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		<pubDate>Fri, 11 Feb 2011 14:39:28 +0000</pubDate>
		<dc:creator>theuthe</dc:creator>
				<category><![CDATA[03 absurdités]]></category>
		<category><![CDATA[04 les langues]]></category>
		<category><![CDATA[français]]></category>

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		<description><![CDATA[以前のエントリー（「由来を失ってどこまでも重なっていく言葉」）で「意味の重複のある地名」としてフランスの幾つかの地名に触れた。地名の話は尽きない。リモージュ近在の奇妙な地名を幾つか収拾してみる。 ＊　＊　＊ 言語学にとっては地名というのは言葉の変遷を探るのにも好個の素材であって、私自身も関心の高いところだ。 いま住んでいるリモージュという街は、フランス中西部の内陸の街で、いわゆるオック語の分布する最北端に近い。もっともオック語はすでにほぼ死語に近く、絶滅危惧言語である。それでもオック語保存会みたいな組織もあるし、オック語の本の専門店などというものも市庁舎のほど近くに存在する。 日常の言葉にはオック語の残滓は認められないが、辛うじて « Chabatz d&#8217;entrar! » という表現は今日でもポピュラリティがあるようだ。「ようこそ」「どうぞお入りになって」といったほどの意味である。商店ばかりか個人宅でも Bienvenu の代わりにパネルに書いて、店の戸に掛けておいたりする。 しかし、すでに街頭でもまず聞かれることのないオック語を探し求めるならば、どうしても地名に手が伸びる。地名というのは頑固なもので、古い形を残しがちなのである。日本でも東北のそこここにアイヌ語の痕跡が地名として残っているのはよく知られている。 そんなわけで、このリモージュの近在にオック語の痕跡を求めて地名探索をせねばならないのは当然のことであった。ところがオック語由来の言葉に限らず、幾つか奇妙な地名に行き会ったのである。その奇妙な地名について報告する。 ＊　＊　＊ １）Les quatre vents レ・キャトル・ヴァン：「四つの風」という町（地図参照） リモージュの北東、アンバザックにほど近い田園のなかに見る地名である。周囲はなだらかな牧場と森のひろがるフランス中西部に典型的な風景。この地名は友人が道すがら「詩的で素敵でしょう」と言って教えてくれた。 詩的にもいいのかも知れないが、野暮天の言語学者にとって語学的に面白いのが、不可算名詞「風」が「数えられている」という点。風といったら du vent というように通常は部分冠詞付でお目にかかる単語だ。言って見れば不可算の代表みたいなものだと思うが Les quatre vents とは。友人に「風はどう数えるんだ」と聞いたら答えが振るっていた。「数える必要はない。数は四つに決まっている」 何故かと言うに、彼の言うことによるとこれは「四方の風に (aux quatre vents) 吹きさらわれる」つまり「あっちゃこっちゃに風で吹き散らされる」という表現でしか使わないのだと。あとで字引きを見てみたら確かに quatre vents とは「四方位」のこととあった。全方向、すなわち東西南北の四方ということである。 不可算名詞のもう一つの代表格「水 (de l’eau) 」などでも「全世界」を含意する「七つの海 (sept eaux) 」なんていう複数の用法があるし、筋は通っている。 しかしこれを「四方位」と訳すのはちょっと残念だ。ここは「四つの風」という意味を保存しておきたい気がする。なるほど詩的な地名なのだ。 ところでフランス中にこの地名は散在しており、しかも Les quatres vents という綴り間違いの地名もたくさんあるのだった。quatre 「四」を quatres としている。quatre のリエゾン間違いと言えば「四つの目の間、すなわち二人だけの話、内密事 (entre quat’z-yeux) [...]<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=marginaliae.wordpress.com&amp;blog=14250802&amp;post=165&amp;subd=marginaliae&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>以前のエントリー（「<a href="http://marginaliae.wordpress.com/2010/06/19/%E7%94%B1%E6%9D%A5%E3%82%92%E5%A4%B1%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%82%82%E9%87%8D%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%8F%E8%A8%80%E8%91%89/">由来を失ってどこまでも重なっていく言葉</a>」）で「意味の重複のある地名」としてフランスの幾つかの地名に触れた。地名の話は尽きない。リモージュ近在の奇妙な地名を幾つか収拾してみる。</p>
<p style="text-align:center;"><span id="more-165"></span> ＊　＊　＊</p>
<p>言語学にとっては地名というのは言葉の変遷を探るのにも好個の素材であって、私自身も関心の高いところだ。</p>
<p>いま住んでいるリモージュという街は、フランス中西部の内陸の街で、いわゆるオック語の分布する最北端に近い。もっともオック語はすでにほぼ死語に近く、絶滅危惧言語である。それでもオック語保存会みたいな組織もあるし、オック語の本の専門店などというものも市庁舎のほど近くに存在する。</p>
<p>日常の言葉にはオック語の残滓は認められないが、辛うじて « Chabatz d&#8217;entrar! » という表現は今日でもポピュラリティがあるようだ。「ようこそ」「どうぞお入りになって」といったほどの意味である。商店ばかりか個人宅でも Bienvenu の代わりにパネルに書いて、店の戸に掛けておいたりする。</p>
<p>しかし、すでに街頭でもまず聞かれることのないオック語を探し求めるならば、どうしても地名に手が伸びる。地名というのは頑固なもので、古い形を残しがちなのである。日本でも東北のそこここにアイヌ語の痕跡が地名として残っているのはよく知られている。</p>
<p style="text-align:left;">そんなわけで、このリモージュの近在にオック語の痕跡を求めて地名探索をせねばならないのは当然のことであった。ところがオック語由来の言葉に限らず、幾つか奇妙な地名に行き会ったのである。その奇妙な地名について報告する。</p>
<p style="text-align:center;">＊　＊　＊</p>
<p style="text-align:center;">１）Les quatre vents レ・キャトル・ヴァン：「四つの風」という町（<a href="http://maps.google.fr/maps?f=q&amp;source=s_q&amp;hl=fr&amp;geocode=&amp;q=Les+Quatre+Vents&amp;aq=&amp;sll=45.899566,0.998383&amp;sspn=0.517989,1.549072&amp;ie=UTF8&amp;hq=&amp;hnear=Les+Quatre+Vents,+Ambazac,+Haute-Vienne,+Limousin&amp;ll=45.937303,1.373634&amp;spn=0.064705,0.193634&amp;t=h&amp;z=13">地図参照</a>）</p>
<p>リモージュの北東、アンバザックにほど近い田園のなかに見る地名である。周囲はなだらかな牧場と森のひろがるフランス中西部に典型的な風景。この地名は友人が道すがら「詩的で素敵でしょう」と言って教えてくれた。</p>
<p>詩的にもいいのかも知れないが、野暮天の言語学者にとって語学的に面白いのが、不可算名詞「風」が「数えられている」という点。風といったら du vent というように通常は部分冠詞付でお目にかかる単語だ。言って見れば不可算の代表みたいなものだと思うが Les quatre vents とは。友人に「風はどう数えるんだ」と聞いたら答えが振るっていた。「数える必要はない。数は四つに決まっている」</p>
<p>何故かと言うに、彼の言うことによるとこれは「四方の風に (aux quatre vents) 吹きさらわれる」つまり「あっちゃこっちゃに風で吹き散らされる」という表現でしか使わないのだと。あとで字引きを見てみたら確かに quatre vents とは「四方位」のこととあった。全方向、すなわち東西南北の四方ということである。</p>
<p>不可算名詞のもう一つの代表格「水 (de l’eau) 」などでも「全世界」を含意する「七つの海 (sept eaux) 」なんていう複数の用法があるし、筋は通っている。</p>
<p>しかしこれを「四方位」と訳すのはちょっと残念だ。ここは「四つの風」という意味を保存しておきたい気がする。なるほど詩的な地名なのだ。</p>
<p>ところでフランス中にこの地名は散在しており、しかも Les quatres vents という綴り間違いの地名もたくさんあるのだった。quatre 「四」を quatre<strong>s</strong> としている。quatre のリエゾン間違いと言えば「四つの目の間、すなわち二人だけの話、内密事 (entre quat’z-yeux) 」などという表現もあって、quatre に s を付けておきたくなるのはよくあることらしいが（小学生などもよく間違えて訂正されている）、地名にまで登録されているなら quatres もあながち間違いとは切り捨てられない。</p>
<p style="text-align:center;">＊　＊　＊</p>
<p style="text-align:center;">2) La Malaise ラ・マレーズ：「不快感」という町（<a href="http://maps.google.fr/maps?f=q&amp;source=s_q&amp;hl=fr&amp;geocode=&amp;q=La+Malaise&amp;aq=&amp;sll=45.90265,0.994728&amp;sspn=0.019173,0.034375&amp;ie=UTF8&amp;hq=&amp;hnear=La+Malaise,+Saint-Brice-sur-Vienne,+Haute-Vienne,+Limousin&amp;t=h&amp;z=15">地図</a>）</p>
<p>ナチの殺戮で街が一つほぼ皆殺しにされたことでつとに有名なオラドゥール（スュル・グランヌ）から南に下って数キロ、国道 N141 沿いの小さな町である。</p>
<p>町の名前としてパノー（看板）に見たときにぎょっとしたものだ。「不快感」にあたるフランス語は本当は <em>le</em> malaise なので、性が違う。だが車窓を次々と流れゆく標識の、冠詞のところなんていちいち確かには見はしない。一見して「不快感」と書いてある。</p>
<p>しかもフランスの街道筋は町に入る時に必ず看板で「ここから La Malaise 」と告げ、街を出る時には同じデザインに斜めに赤い線の入った看板で「ここまで La Malaise」と知らせる習いである（街の中でだけ速度制限が違うのだ）。車窓からぼんやりと田園を眺めていると突然の不意打ち、「ここから不快感」、そして「ここまで不快感」と言われるようなものである。</p>
<p>初めてこの町を通り抜けた時は笑ってしまった。突然に「不快感」に入って、「不快感」を脱するまでは、ものの五分ほどであった。</p>
<p>車を運転していた友人に「この町の人はみんないつも不快でいるんじゃないだろうな」と言ってみたところ、「別に不快ではないかも知れないけれど、全員マレー女 (Les Malaises) かもしれない」とのこと。La Malaise は「マレーの女」とも読める。なるほど。</p>
<p>この友人が上の「不快感」に加えて示唆してくれた地名もかなりすごかった。「『不快感』もいやだけどもっとひどいのがあるよ……」。すなわち、次の通り。</p>
<p style="text-align:center;">＊　＊　＊</p>
<p style="text-align:center;">3) Angoisse アンゴワッス：「不安」という村（<a href="http://maps.google.fr/maps?f=q&amp;source=s_q&amp;hl=fr&amp;geocode=&amp;q=angoisse&amp;aq=&amp;sll=45.645248,0.350189&amp;sspn=0.130089,0.387268&amp;ie=UTF8&amp;hq=&amp;hnear=Angoisse,+Dordogne,+Aquitaine&amp;t=h&amp;z=13">地図</a>）</p>
<p>リモージュから南に数十キロ、「不安、ないし苦悶」という名の町がある。</p>
<p>J’ai habité, depuis la naissance, au centre d’Angoisse&#8230; 「生まれてからこのかた『不安』のただなかに住んでいる」などということも起こり得るわけだ。のどかそうな田園のただ中に一点、「不安」という町が鎮座している。</p>
<p>この Angoisse という村は古名を Engoissa と言うそうで、これは古いオック語で「狭い道、隘路」を表す言葉だそうだ。さらに語源を遡るとラテン語の angustia &lt; angustiae (f.pl.) &lt; angustus ここまで辿れば単に「狭い」というほどの意味に過ぎない。「不安」を意味する angoisse の語源も同じ angustia だから、元は同じ意味から始まっていたのだ。それが二手に分かれた。一方は「胸が締めつけられるような不安」、他方は単に「狭い道」、使う局面も異なれば、実際の発音も違ったろう。しかしやがて時を隔てて二つの言葉が合流して、今日風に綴り直される。そうなると前者の意味「不安」しか見えてこなくなってしまう。</p>
<p>もともとはそんなに悪い意味でもなかった訳だろうが、今の住民はどう思っているのだろうか。おそらく冗談の種にでもして、vivre à Angoisse sans angoisse「なんの不安もなく Angoisse に暮らしている」のかも知れない。</p>
<p style="text-align:center;">＊　＊　＊</p>
<p style="text-align:center;">4) Arnac La Poste アルナック・ラ・ポスト：「郵便泥棒」という町（<a href="http://maps.google.fr/maps?f=q&amp;source=s_q&amp;hl=fr&amp;geocode=&amp;q=arnac+la+poste&amp;aq=&amp;sll=45.427597,1.135937&amp;sspn=8.357931,24.785156&amp;ie=UTF8&amp;hq=&amp;hnear=La+Poste,+Arnac-la-Poste,+Haute-Vienne,+Limousin&amp;t=h&amp;ll=46.266054,1.377583&amp;spn=0.03216,0.053473&amp;z=14">地図</a>）</p>
<p>極め付けはこの町、Arnac-La-Poste 「郵便をかっぱらえ」としか聞こえない奇妙な町があるのだ。ところはリモージュの北、オック語限界線の最北端に位置する。フランス・メトロポリテーヌの臍に位置する町で、実際にこの町はパリ・トゥールーズ間の中央にあり、高速道路で両都市を往復するものは Arnac-La-Poste の出口の標識を見れば「これで半分来たか」と思うものだと言う。</p>
<p>それにしても Arnaque la poste ! と言えば「郵便をかっぱらえ！」という意味にしか聞こえない。百年戦争の時代に要塞化されたという、由緒もある古刹なのだが、なによりもこの「奇妙な名前」でフランス中に令名を轟かせているのである。</p>
<p>語源的には諸説あり、ガリア人名 Arnos アルノスに帰する説、同じく人名 Artonos に遡るとする説、後者の場合はケルト系の artos すなわち「熊」を語源とする、などとされている。Albert Dauzat et Charles Rostaing (1979) <em>Dictionnaire étymologique des noms de lieux en France</em>, Librairie Guénégaud.</p>
<p>この町の公式ウェブサイトの説明ではケルト系の語尾が Arnac には見られ、その場合の語源は「岩、小高いところ」だったそうで、この地域には多くある地名だったとのこと。現地からの説明なので、目下はこの説が有力か。なにしろ地域に多くある地名なので、区別のために当地に十八世紀初頭からあった郵便中継局にちなんで「ポストのところのアルナック」としたのだ、と言う。</p>
<p>それがたまたま発音上の類似から「ポストをかっぱらえ」になってしまった。</p>
<p>この町では町名の看板が「かっぱらわれる」ことが多いらしく、気の毒ながらもむべなるかなという感がある。</p>
<p>この「郵便泥棒」の町からはじまって、さらに多くの「フランスの奇妙な地名」を知ることになったのだが、それは次の話題としたい。（2011/02/13)</p>
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