回文の世界 Le monde du Palindrome

回文の世界

Le monde du Palindrome

回文というのは「上から読んでも山本山,したから読んでも山本山」のことだ(古いな)。いや,それは不正確か。むしろ引き合いに出すべきは:

◆新聞紙
◆竹やぶ焼けた
◆軽い機敏な子猫何匹いるか

であろう。どれも有名なものだ。回文については最近では村上春樹が『マタタビ浴びたタマ』で小さなブームを呼んだ。(面白く,かわいい,よい本だと思うが筆者は買わなかった。)

日本語はシラブル単位で一文字を書くので回文が作りやすい。マニアも多く,図書館でも言語の棚の一隅に「回文もの」とでも類すべき書物がたくさんある。もっともマニアのつくるオリジナル回文は玉石混淆で,エレガントなものはごく少ない。回文は長ければ長いほど作るのが難しくなるので,マニアの関心もいきおい「いかに長く」というところに向かうのであるが,長いものはたいていエレガンスに欠けるようだ。たとえば:

◆二階家留守とイノシシ消えた朝、グレた記者集めし、いたく根暗な医者、括らん。 手紙がわたしに奇癖教えた。 あくどき淫夫、医者、あからさまいい品買えると威張り、安穏。 アリバイ取る図(え)、悲しい。いまさらか? 怪しい雰囲気、毒与えし沖へ。 気にした我が身が転落。悔しい奈落。 ネクタイ締めつ、怪しき垂れ草与え来し、氏の意図するやいかに?

苦労はしのばれるが,多くの読者は途中で読むのを諦める。苦しいのだ。前掲の『マタタビ浴びたタマ』が受けたのも,程よい長さに一因がありそうだ。回文のエレガンスは筆者は「天衣無縫」につきると思う。天人の衣には縫い目は無い。至高の作品には制作過程をしのばせる手がかりなどないのだ。

回文も苦労して出来上がった気配が漂ってはいけないのではないか。「無駄な配語がないこと」「筋が通っていること」「読むのに苦労が要らないこと」しかるに,たしかに後ろからも読める,というのが理想だ。もちろん「筋を通す」より「意表をついた語のつながり」に面白みが浮かぶことは往々にしてあるかと思うが,それはそれである。「解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の出会い」もいいが回文にそれを求めるのはやや筋が違う。回文は詩的であるよりむしろ一貫して散文的であってほしい:

◆イカ・ブリ・カモメもカリブ海
◆死にたくなるよ,と夜泣くタニシ
◆ニワトリと、小鳥と、ワニ

動物ものにはやや点が甘いかもしれないが,どれもよい。「イカ・ブリ・カモメもカリブ海」筋が通っている。情景が目に浮かぶ。出来の悪い回文には,それを補強する文脈と言うか,状況というか,和歌でいう「詞書(ことばがき)」みたいなものが添付されることがあるが最低である。それではいけない。状況をも回文が「思わせなくては」ならないのだ。イカ・ブリ・カモメもカリブ海。いいではないか。

「死にたくなるよと,夜泣くタニシ」しみじみ心にせまる。ちょっとまて,先生にみんな話してご覧,と声をかけたくなる(筆者の一人称が「先生」であることは深く問うな)。もう回文の域を超えている。短詩である。ただこの短詩を成立させる重要要件は「回文という縛り」であることも見逃せない。西洋古典研究に片足を突っ込んでいるからではないが,わたしは「形式の縛り」のない詩というものをほとんど認めない立場だ(これについてはいずれ書くこともあろう)。

「ニワトリと,小鳥と,ワニ」素晴らしい。この後何がおこるのか,人によって想像することはいろいろだろう。いや,前言撤回。みんな考えることは一つじゃないかな。ニワトリ,小鳥,ワニ。もうどうなるかはお分かりだろう。ああ……。

このように誰でも知っている言葉で構成されるのが,まずは回文のエレガンスである。固有名詞にいたずらに頼る回文は見苦しい。「池に立つ谷啓」とか「きみ,今井美樹?」とか短さに光るものがあるが所詮固有名詞の音韻配列の自由度のなすところである。固有名詞を許容するならどんな音韻配列も不可能ではない。もちろん例外もあることはある。固有名のもつ観念連合というか,ようするに「この人ならこれしか無い」という属性がぴったり回文にはまってしまうケースである:

◆肉の多い大乃国
◆宇津井健氏は神経痛

大乃国(現柴田山親方)はアンコ型力士の代表であった。彼が横綱を張り,小錦(現 Konishiki)が大関だった時分には千秋楽近くにかならず両者の取り組みがあった。土俵に立つ大乃国&小錦。合計400何十キロ。まさに肉と肉のぶつかり合い。「肉の多い大乃国」これ以上に言い当てた言葉はあるまい。ちなみに大乃国は八百長を頑に拒んだとのことで,相撲マニアには今も人気が高い,容姿にも関わらず(失礼)渋めの力士である。ついでに言うと「肉の多い小錦」は成立しない。回文にならないからではない。小錦には何か他にもいろいろ過剰なものがある。多いのは肉だけではないのだ。それが何かは私にもはっきりは判らないのだが。

また「宇津井健氏は神経痛」もまた,ほとんど宇津井健の名前そのものによって成立する「名前勝ち」の例だ。しかし先ほどあげた感心しない例に比べるとこのエレガンスはどうか。宇津井健。神経痛。ありそう。たしかに。なぞの説得力である。こうした微妙なところで正否がわかれる。まさに回文は韻文のひとつだ。

そういえば私事にわたるが,昔持っていた絵本に「つつみがみっつ」というものがあった。福音館書店の「こどものとも」の一冊である。タイトルで察せられるように回文だけで綴られた物語である。この本には回文の古典も多かったが,その後耳にしないかくれた傑作があったように思う。今同書は手元にないが記憶しているものでは:

◆「てつだって」
「てつだうよ,なんどもどんなようだって」

あらためて書いてみてやや感慨深い。傑作だとおもう。

やや毛色の違うものを探してみよう。ローマ字版とでも言うか。発音上の回文とでも言うか。シラブル単位ではなく,音素単位の回文で,実際に録音したものを逆さまから再生しても同じに聞こえる類いのものだ。単純なものでは:

◆赤坂 (akasaka)

ちょっと凝ってみると:

◆粋な姐さん,いなせな兄貴 (ikinaanesan inasena aniki)

これなら西欧語でも同じ土俵にのれる。もっともこちらは綴りの上での回文に過ぎず、発音上は反転できないのが惜しい。英語の古典中の古典を二つ。

◆ Madam, I’m Adam (奥様,私はアダムです)
◆ Able was I ere I saw Elba (エルバ島を見るまでは,私は何でも出来た)

後者は若干の解説がいるだろう。状況を解説しなくてはならないのでは回文の名にもとる,と先に言ったがここは仕方が無い。Able was I というのは倒置構文だ。SVC 構文はこのように倒置しうることは高校で教える。やや詩的な表現で「私には不可能はなかったものを!」といったところか。ere は古い「詩的な」接続詞で before に同。エルバ島とはナポレオンの二度の島流しのうち、最初の追放先となった島のことである。つまり I という一人称はナポレオンのことなのだ。解説が必要なのは瑕としてもよく出来ている。

さてここから先は西欧の回文だ。コレクションはずいぶんある。長くなりそうなので稿を改めよう。第一回の最後に変わり種を一つ:

◆ NOW NO SWIMS ON MON

これはサン・セリフでプリントしてひっくり返すと同じ文になる,上下反対回文とでも言うか。意味は「目下,月曜には泳げません」

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Published in: on 2010/11/17 at 16:43  回文の世界 Le monde du Palindrome はコメントを受け付けていません。  
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