悲劇名詞と喜劇名詞

there are words and words

今までにも何度か触れたことだが,西欧の言語にはしばしば名詞に男性名詞と女性名詞(時には中性名詞も)の区別がある。

名詞を一度用いれば,それにかかる冠詞も形容詞も問題の名詞の性(と数)に一致させて「変化」させなくてはならない。たとえば女性名詞の複数形を使ったら冠詞や形容詞も「女性複数」に一致させておく。これは面倒くさいようだが,慣れてくるとこうしないと物足りなくなってくる。

英文を書いていると,名詞を修飾するにあたって使った形容詞が性にも数にも呼応しないので,形容詞が名詞に寄り添っていないというか,なんだかよそよそしいというか,言葉と言葉の緊密な繋がりが刻めないのがもどかしくなる。こんなのも,フランス語をメタ言語に古典語をやっているというわたしの特殊事情なのかもしれないが,個人的な英語力の貧困のことはさておき,英文を書いているとどうも「ちゃんとした文」を書いている気がしない。なんだか雑なのだ。わたしは日常的にドイツ語を使わないので、そちらの感覚は分からないが、ドイツ語を中心に書いたり考えたりしている人にはフランス語でも、物足りなく思えるのではないだろうか。「どうして中性名詞がないんだろう!」なんて憤慨していたりして。「どうしてちゃんと名詞を大文字で始めておかないのかな!」とか。

日本語ではこうした苦労は無いだろうか。名詞の性にも数にも頓着しない日本語にも,外国人を戸惑わせる名詞のカテゴリー化がある。その代表は「ものの数を数える」ときに顕在化するいわゆる「名詞クラス」である。我々は漠然と「台」で数えるべき名詞と「本」で数えるべき名詞を区別している。これはこれで一ネタなのでいずれ触れることもあろうが,今回取り上げるのはこの一種の「名詞クラス」の話ではない。喜劇名詞と悲劇名詞である。

これを言っていたのは太宰治だった。たとえば「汽船」と「汽車」はいずれも悲劇名詞で「市電」と「バス」はいずれも喜劇名詞なのである。

なぜそうなのか、それのわからぬ者は芸術を談ずるに足らん、喜劇に一個でも悲劇名詞をさしはさんでいる劇作家は、既にそれだけで落第

ということで,なんとも空恐ろしいのであるがなんとなく腑に落ちる感じもある(かな?)。いまちょっと調べたら『人間失格』だった。

この区別は結構難しい。間違えたら「落第」というぐらいはっきりしたことなのだそうだが,単純に考えていると足をすくわれる。大宰の仮託する主人公によれば「煙草」は悲劇名詞だが,「死」は「牧師」「和尚」とならんで喜劇名詞だという。なるほど。

当然「生」も喜劇名詞だ。大げさな深刻ぶった言葉はいずれも喜劇名詞に堕するのである。「正義」とか「真実」とか「愛」なんていうのも,おそらくこの伝で言うと喜劇名詞に属するのだろう。判るような気がする。

前掲書でこのあと衆目が一致して悲劇名詞と認めるのは「漫画家」であった。そうなのか。

判断は意外と難しそうだが,ここは単純に考えて先を続けてみよう。

  • 「白血病」は悲劇名詞だが,「虫垂炎」は喜劇名詞ではないか。
  • 「労咳」も悲劇名詞だろうが,おなじことでも「結核」は微妙か。「結核」というと私にとってはサナトリウム文学の病ではなく「すすめパイレーツ」の稲刈真青(沖田総司ファン)の持病だ。
  • 「銀貨」は悲劇名詞だが「小判」は喜劇名詞。
  • 「蛍」は悲劇名詞だが「カマドウマ」は喜劇名詞。
  • 「吐き気」は悲劇名詞だが「便意」は喜劇名詞。
  • 「セロ弾き」は悲劇名詞だが「ボンゴ叩き」は喜劇名詞。
  • 「マッチ売りの少女」は悲劇名詞だが「ミネソタの卵売り」は喜劇名詞。
  • 「ブルーズ」は悲劇名詞だが「ポルカ」は喜劇名詞。

「生きながらブルーズに葬られ」なんていうと恰好良いけれど,「生きながらポルカに葬られ」なんていうと,いったい何があったんだ! って感じになってしまう。葬られたという重大な事実よりも先に、「なぜポルカに」というところが問題になってしまうのだ。これがある意味では喜劇名詞の力である。

試しにジャニス・ジョップリンの晩年の擦れ声で「次の曲を紹介」してみれば判る。

Ah… Next song… I’d rather mean next tune… is my last work… there’s no word, no vocal part at all… “Buried alive with POLKA”.

Published in: on 2010/12/06 at 09:44  悲劇名詞と喜劇名詞 はコメントを受け付けていません