ンジャロなキリマ 意外なところに切れ目あり

キリマ・ンジャロ

「キリマンジャロの雪」といえば、ヘミングウェイの短編ではもっとも有名なもののひとつだ。このアフリカ最高峰であるキリマンジャロは二語からなる地名である。

で、その切れ目がキリマ・ンジャロ。「山」+「輝ける」。

コーヒーの銘柄選択で「キリマン」などと略称することは多いかと思われるが、この際どこで区切るのが原語に照らして正当かといえば、「キリマ」であるということになる。切れ目が意外なだけでない、日本人(ばかりではないが)には「ん」で始まる単語にいささか虚を突かれる思いがするところだ。もっともアフリカを行き来する人々にとってはンゴロゴロとかンジャメナとか当たり前の語感なのだろう。ンジャメナにいたっては一国の首都だ(チャド)。

タンザニアのザンジバルを中心とする「海岸(=スワヒリ)」の言語圏の音韻環境ではこうした語頭音はごく普通ということだ。尻取りをやっているときに相手がうっかりと「ン」で終わる単語を口にしたら「間髪入れず(伏線)」にンジャメナ! と言ってあげたい。尻取りにはしばしば「誰も知らない言葉は、現に存在していてもアウト」という内規みたいなものがあるが、ンジャメナについては政治的・地理的ステイタスはロンドンやパリと同じレベルだ。断固主張して尻取りを継続させてもらいたい。国連だって一国一票である。トーキョーやワシントン DC がよくてンジャメナはダメというのは筋が通らない。

ところで、スワヒリという言葉字体はスワヒリ語ではなくアラブ起源なんですって。「スワヒリ語」はスワヒリ語ではない……

さて、本題に戻るが、このように由来を知ってみると「おや」と思う言葉はしばしばある。本題というのはンジャロなキリマのことだ。つまり「えっ、そこが切れ目なの?」と驚かされる成句がある。

意外なところに切れ目あり

先にあからさまに伏線を張っておいたが、成句「間髪を入れず」である。これは慣用的に「かんぱつ(を)いれず」と誤読されることが多いが、由来を温ねれば正しい読み、および切れ目は「かん、はつをいれず」のごとくである。動詞のところの用字も「間髪を容れず」とするのが本来であるという。言われてみれば確かにそうかという気もしてくるだろう。この「ぱつ」の読みに引きずられる傾向は、字面も似ていれば、使用される場面の切迫性という点でも似たところのある、別個の成句「間一髪」との観念連合が働くことにあるのではないだろうか。

成句というものは、たとえば成句辞典を熟読玩味して意味用法を覚えていくものではなくて、膨大な実際の使用例に触れることで「なんとなく」意味と使い方を合点していくものである。したがってよく見聞きする成句で、自分でも使い方を間違えないでいるものなのに、由来は知らず、語の切れ目すら見誤っている例というのがしばしば出てくることになる。このエントリーではそうした「そこが切れ目だったのですか」と意表を衝く成句のコレクションを陳列する。

アカペラで会いましょう

伴奏無しで歌うことを「アカペラで歌う」と言うが、このアカペラとは何か。そして切れ目はどこにあるのか。

結論から言うと「ア・カペッラ」と切る。イタリア語で a cappella。「ア」は場所を示す前置詞で、「カペッラ」は礼拝堂のこと。英語で逐語訳すれば « in the chapel » のごとくで「聖堂の中で」といったほどの副詞句である。要するに語義の上では「聖堂の中で」演奏・合唱される形式ということであるから元来は「無伴奏」の含意はなかったが、この言葉はジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ流の「教会音楽の簡素化の趨勢」と軌を一にして出来てきたものであり、「無伴奏」はその簡素化の当然の帰結点であった。

「きらぼし」ってどんな星?

綺羅星の如く」は「きらぼしのごとく」ではなく「きら、ほしのごとく」と切る。「輝くこと、星のよう」ということだ。したがって「綺羅星」という星、「綺羅星」という言葉は本来は存在しなかったのである。ところがこの成句から「綺羅星」の存在は事後的に生まれた。まさしくこの成句が人口に広く膾炙することを通じて、多くのひとの脳裏に「綺羅星」がまたたき始めたのである。かくして今日の辞書には「綺羅星」という語が登録され、たとえば『大辞泉』は「《「綺羅、星の如し」からできた語》きらきらと光り輝く無数の星。」と断りを入れた上で定義を示した。

「登竜門」ってどんな門?

出世の関門という意味で使われる「登竜門」は「とうりゅうのもん」ではなく「竜門を登る」。訓点を付けるなら「登二龍門一」である。「後漢書」李膺(りよう)伝の故事に由来する。「竜門」は黄河上流の急流で、この難所をさかのぼることのできる鯉だけが竜になれるという話。つまり「竜門」を登って鯉が竜に変ずるのである。

「言語道」ってどんな道?

言語道断」は通常「お話にならないぐらいひどいこと、とんでもないこと、もってのほか」と云ったほどの意味で使われる成句で、多くの場合「ごんご・どうだん」といったぐあいに「メンマ・ザーサイ」式のアクセント型で発音されている。

ところがこれがもともとは仏教用語であり「奥深い仏教の真理や究極の境地は言葉では言い表せない」というほどの原義を持っていたという。評価の高い大辞典が以下のごとくに説く(強調引用者):

言葉で表現する道が断たれるの意。(日本国語大辞典)

言語で説明する道の絶えた意。(広辞苑)

〔「言葉で説明する道が断たれる」の意から〕(大辞林)

いずれも「言語道」を「言語によって説く道」と解している。したがってこの伝では「言語道を断つ」と切るのが本来である、ということになろう。事実、そのように説明している記事も多い。しかしこうした解題は恐らく牽強付会である。いずれも「道」を「方途」といったほどの意味に取っているようだが、それではこれらの記事に出てくる「表現する、説明する」という語はどこに求めたのか、勝手に補ったのか?

実は「言語道」などという連語は成立しない。それというのも「道断」という語が別に独立して存在しているのである。したがって「ごんご・どうだん」という俗な切断の方が原義に忠実である。「メンマ・ザーサイ」式で差し支えないのである。そもそも上記の三大辞典自身が「道断」を項立てして、こう説いている:

(「道」はいうの意)いいようがないこと。もってのほか。言うすべの絶えること。(日本国語大辞典)

(「道」は言うの意)言うすべの絶えること。もってのほかのこと。(広辞苑)

〔「道」は言うの意〕言うにたえないこと。もってのほかのこと。(大辞林)

「道」は動詞として使えば、「言う、説く、伝える」という意味なのであり、各辞書そのとおりに説明している。ならば「言語道断」についても同じ注釈をもって臨むべきである。「國際電腦漢字及異體字知識庫」http://chardb.iis.sinica.edu.tw/ に依って「道」「斷」にあたれば、数ある語義の中でもとりわけこうある:

「道」について「說、講述」

「斷」について「禁止、戒除」

この二文字を並べて見れば「道を断つ」と解釈したくなるのはやまやまであり、俗情として理解できるが、ここは「説きえない、説いてはならない」という意味に解すべきであろう。それは「道断」単独ではもちろんのこと「言語道断」についても左様である。

妙法蓮華經安樂行品第十四:觀一切法空。如實相。不顛倒。不動。不退。不轉。如虚空。無所有性。一切語言道斷。

(私訳)一切の法を空と観ぜよ。これは如実の相である。顛倒(道理に背くこと)しない。動かない。退かない。転じない。一切の法は虚空のごとく、およそ性質を有せず、一切、言葉をもって説いては(道)ならない(斷)。

維摩經抄 維摩經卷第一弟子品第三:真如理法言語道斷故云不聞。

(私訳)真如の理法は言葉で説明してはならぬものであり、言って聞かせるわけにはいかない。

仏教哲学的には諸論あるかと思うが、語釈に限っては上の通りではないだろうか。

しかし「道断」と「言語道断」の二語の解題が互いに撞着しているなどとは、定評ある大辞典としては言語道断な話である。

「習い性」ってどんな性(さが)?

習い性となる」は「習慣がいつしか本性のごとくに身に付く」という意味であり、「習い性」なる「さが」があるわけではない。「習い、性となる」と切るのである。成句の出典は『書経』太甲上 http://ctext.org/shang-shu/tai-jia-i/zh だそうである。

王未克變。伊尹曰、茲乃不義、習與性成。予弗狎于弗順、[後略]

(私訳)王はまだ改心をみない。伊尹がいうには、「あなたの不義が習慣化して本性に化してしまったのだ。わたしは弗順[道義に順(しがた)わぬこと]に狎(な)れない。[後略]」

この古諺ときれいに対応することわざ (proverb) が英語にもある。「習慣は第二の天性Habit is second nature.

さらにもう一歩押し進めて、後天的に獲得した資質の方が天性よりも大事なのだ、とまで言うのが次のことわざ:More nurture than nature. nurture と nature が頭韻(アリテレーション)と脚韻(ライム)の両方を兼ね備えたきれいなことわざだが、こちらの方には日本語にぴったり対応するものがあって:「氏より育ち」。秋刀魚に絞るのは「柚子より酢橘」。

「一朝事」ってどんだけの一大事?

一朝事有る時」という言葉がある。実はわたし自身、つい最近までこの言葉を読み違えていた。「いっちょうじ、あるとき」と読んでいたのである。したがって「いっちょうじ」という言葉が存在しており、その意味は「国がひっくり返るような一大事」といったところであろうと、それほどの認識でいた。ところが「一朝事」と書いてみたら、校閲担当の方から指摘があって、ここで勘違いに初めて気が付いた。

これは「いっちょう、ことあるとき」と読むのであり、意味の方は「ひとたび何事か生じた時」というに過ぎない。すなわち「国家動乱の有事の際」どころか「ちょっくら不都合がありましたら」ぐらいの意味であった。「一朝」自体は「国家(というか朝廷)」の意味ともなりうるから「一朝の有事」とすれば、私が意図していた「いっちょうじ=国難の有事」に差し替えられるだろう。そこで現にそうしたのだが……

このブログでは「言語学的落ち穂拾い」というコンセプトから無理からぬことだが、時にひとの言葉の間違いを論(あげつら)い、くさしている例(ためし)が多い。今に言う「上から目線」という具合である……だがわたし自身もその実態はこんなもの、まだどんな間違いを仕出かしているか判ったものではない。諸賢はもって他山の石とせられ、玉を攻(おさ)められよ。

ふだん使いつけているが故に、かえって分析できない

こうした成句というのは熟していればいるほど母語話者には「分析」されていないものなのかもしれない。とあるフランス人が voilà 「これが〜だ」「ほら〜がある」「どうです〜ってこういうものです」という単語? は vois là 「これをご覧」に由来するものだということを指摘したらビックリしていたことがある。この人はいくらなんでもちょっとウッカリしすぎだとおもうが、我が身を振り返って意外な「分析」に気付いていない可能性には謙虚にならなければなるまい。

「さかな」が酒の菜、つまり酒のつまみの謂だということは言語学徒ならどこかで出会う話であろうが、いざ知ってみても「不覚」に驚きこそすれ、依然として「さか・な」と切れることなど実感の湧かない話だ。「酒の肴」には意味の重複があることになるが、だからって「酒の肴」という言葉になんらの違和感も覚えはしない。

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Published in: on 2013/02/07 at 12:36  ンジャロなキリマ 意外なところに切れ目あり はコメントを受け付けていません。  
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