うなぎ文の一般言語学

これは以前のエントリー「ウナギ文の好例コレクション(リンク)」の補遺として書かれ始めたものだった。そのエントリーに追補しようと考えていたのだが、この「追補」の方が本体より長くなってしまう勢いである。これは別エントリーにするに如くはないと考えた。

以下に新たな例を付け加えるとともに、いわゆる「うなぎ文」の問題圏から、「名詞文」の問題、さらにはドイツ語・ラテン語の非人称受動の問題、フランス語の代名動詞の問題まで、一般言語学的に話を拡げていく。というか、書いてみたら勝手にそこまで話が及んでしまった。

奥津講演

まず実例の追補として、次の講演に魅力的な例を多く見いだした。つまみ食いにするのはおしい充実した記事であるから、諸賢は原文にあたられたい、すべてリンクを張っておく。以下原則敬称略とする。

奥津敬一郎「言語における普遍と特殊-うなぎ文をめぐって-」2007年度 第1回日本語特別講演会:報告(活動報告にリンク) 特別講演ハンドアウト(原文 pdf にリンク)および講演原稿「言語における不変と特殊——うなぎ文の世界——」(原文 pdf にリンク)より。※後者は文体からすると音声記録の書き起こしではないかと思われる。

『「ボクハウナギダ」の文法―ダとノ』くろしお出版 (1978; 1993 増補*) の著者、いわば「うなぎ文の専門家」が積年の知見を惜しげもなく披瀝した講演。当該問題には上掲書と同時に必読である。特に後半に世界各国語に「うなぎ文」はあるかと、様々な言語の母語話者に聞き取りをしてきた成果が軽妙に綴られている。下のごとく用例だけ持ち出すのが憚られる必読文献の一。ここでは豊富な例から恣意的に抜粋する。* (本エントリー初公開時に (1983)としていたものを 2013/06/12 に上掲ハンドアウトに従い訂正した。ただし書名はAmazonなどに見られるものに合わせた)

万葉集から額田王:

  • 秋山われは

「春の山と秋の山、どっちが好きか」と聞かれて、両者の美点を挙げつつ「秋山われは」。講演でも触れられているが「私は秋山です」と名告っている訳ではない。

  • 春はあけぼの/夏はよる

誰でも知っている日本古典の学習の出発点であるが、思えば実にこれが「うなぎ文」である。秋は夕暮れ、冬はつとめて、私はうなぎ。

  • 「ぼくはたぬきだ」/「私はおかめよ」

後者に「きつね」としなかったのが気が利いている。発話状況は説明するまでもあるまい。

  • 虎ノ門から六本木へパスで行くのに、乗り換えなきゃいけないんです。乗り換えはどこですか、どこで乗り換えますか、ということをある人が聞いた。それに対して「六本木は溜池です」と答えたというんですね。

同様に:

  • イスタンブールはモスクワです

これはトランジットのこと言っている。

  • 檀さんはコーヒーです

はテレビのコマーシャル・メッセージから。

  • Who is the spaghetti
  • You are the black coffee with sugar?

いずれもレストランなりカフェなりで「サーブ」する場面である。この最後の例は四コマ漫画の話の一部で、かなり気の利いた例なので原文をご覧じろ。

I am coffee 型の「コーヒー文」は成り立つか、否か。奥津講演に読む「世界のうなぎ文」

この I am coffee 型の文について追ってみよう。

この類は世界中に見られる。定式化すれば : I am coffee / Je suis café / Ich bin Kaffee/ lo sono caffè のごとくであるが、このコピュラ入りの表現が正用とされるか否かは諸論ある。だいたいインフォーマント(あるいは語学の先生)に尋ねると「言わない、言っても相当ブロークンな表現」といった具合に応じられるものである。このばあい問題は「相当ブロークンな表現」であっても、「現に言う」ということが肝心なのだが、インフォーマント(および教師)は規範文法的なバイアスがかかって、つい「言わない、不適」と証言するのである。思えば日本語の「僕はうなぎだ」だって自然ではあっても「ちょっと奇妙な例」、百歩譲っても「滑稽な曖昧さ」を含んでいる。

管見では「うなぎ文」は世界共通、ほとんど普遍的な言語現象ではないだろうか。ただそこには文法学者や教師が「ぱっと認めたくないイロジックな感じ」がある、そこがしばしば用例を否定される原因になっているのである。

英語のインフォーマントが I’m fish を自嘲した逸話。

池上氏が、ロンドン大学の食堂でグリーンバウムという偉い学者と同席した折の話である。料理を運んで来たウェイトレスが、どちらが何を注文したのか忘れて迷っているとき、この偉い学者の口をついて出た言葉が「I’m fish」だというのだ。池上氏がそのことを指摘すると、グリーンバウム氏は、照れくさそうに「あれは sloppy な(だらしない)言い方なのだ」と答えたそうである。(「明るい部屋」フランス語産業翻訳者 中井秀明氏のホームページ(リンク)の「フランス語のうなぎ文(リンク)」より)

典拠の本(池上嘉彦『「日本語論」への招待』講談社 (2000) )はいま手元に無いので孫引きのままで失礼。次いでドイツ語で Ich bin Kaffee が成立するか否か、証言者間に意見の齟齬がある。

これもずいぶん昔の話ですけれども、フォルヤンティさんという方に、「ドイツ語でうなぎ文があるか」と聞いたんです。そうしましたら、注文したものが、コーヒーとか紅茶とかいろいろあって、「どなたがコーヒーですか?」と聞きますと、お客さんが「私はコーヒーです」というように答えることができる、ということを言ってくれましたので、ドイツ語でもたぶん言えるんじゃないかと思いますが、その次の年に、ドイツから来た先生に、「私はコーヒーです」と言えるかと間いたら、「言えない」というんですね.「去年来たフォルヤンティさんは、言えるって言ってましたよ」と言ったら、「ああ、あいつはいなかもんだから、あいつのドイツ語はだめだ」と言ってましたので、ドイツ語で一体コーヒー文が言えるかどうかというのはわかりませんけれども、言えるという人がいたことは間違いない。(奥津講演より)

フランス語について社会言語学者、鈴木孝夫の証言:

フランス語は、研修会に出てくる人に聞いても、たいてい「だめだ」という否定が多いんですよ。ところが、元慶応大学で、今杏林大学の鈴木孝夫さんという有名な言語学者が、うなぎ文に興味を持ってくれて、何かみつけると私に教えてくれるんですが、例えば、「スポーツで何やりますか」という話をしている時に、「あなたはゴルフです」というようなことが言える、というように彼は言っていました。(奥津講演より)

中国語(空港で何処に行くか聞かれて):

「是、我是北京」[中略]「私は北京です」、「他是上海」「彼は上海です」ということですから中国語でもうなぎ文があるということは、大河内さんも認めていらっしゃいます(奥津講演より)

中国語:

タン君は、自然に、「我是 308」「僕は 308 号室だ」と言ったんですね。「あ、うなぎ文、言った、言った」と、こう言いましたら、タン君が「なるほど中国語にもうなぎ文がありますね」と納得してくれました(奥津講演より)

朝鮮語:

  • 나는김치찌개입니다(ナヌン・キムチチゲ・イムニダ)「僕はキムチ鍋です」
  • 저는홍어회입니다(チョヌン・ホンオフェ・イムニダ)「私は洪魚膾です」

上は奥津講演を参考に作例。講演ではキムチだったが、キムチだけオーダーするものかなと訝しみ、メニューを調え、ハングル表記を加えた。ナヌンは常体、チョヌンは謙譲語というところか。目上のひとと同席しながらホンオフェを注文しているというのもどうかという気もするが。

トルコ語:

トルコ語はどうか、“Ben Okutsu.”[引用者注:「私は奥津です」の意]というのは同一文ですが、私の知っている料理はキョフテと言うのですが、肉団子ですね。”Ben kyofte”とか言えますか? /(セルチュク:「言えます」) (奥津講演より)

字義どおりに「私はキョフテ(肉団子)です」の意味。この例は奥津講演の現場で来場者(パネラーの一人か?)セルチュク氏に確認したものと思しい。

Je suis poisson「私は魚です」?

フランス語圏母語話者は « Je suis café » を否定しがちだが、上にも触れられているように実例はある。上掲の中井「フランス語のうなぎ文」に:

  • Je suis café.

「私はコーヒーです」が報告されている。「コーヒー党か、紅茶党か」という質問に対する答だという。http://ghadames.artblog.fr/1209497/Le-Cafe-et-le-The-chez-le-juge/ というような例も見つけたが、中井氏の挙げている例はまさしくこれかもしれない。

エール・フランスでは機内食に肉か魚を選べるのが普通であるが、フライト・アテンダントを前に je suis poisson「私、魚です」は言えるだろう。フランス語の教師はしばしば否定するが騙されてはいけない。もちろん頑なに節を折らぬ人もいる。

Vous êtes poisson?
— Je ne suis pas poisson, mais je le préfère !
「こちら、お魚ですか?」
「私は魚じゃないですが、魚をいただきます」

これに対して:

  • Je suis poisson né le 18 mars 1968.(中井「フランス語のうなぎ文」より)

これは「三月生まれのお魚になった私」の話ではない。単に「私は魚座です」の謂い。これに関してよく知られた冗談がある:

Hé tu es vierge ?
— Non, je suis poisson !
「なあ、おまえ童貞?」
「いや、魚座だよ」

vierge は「処女・童貞」のことであるが、むろん「乙女座」のことも指す。

Moi, du poisson「俺、魚」

これらの例は「私はうなぎだ」にならってコピュラ(平たく言えば be 動詞)によって前項と後項が結ばれている例ばかりであった。しかし実際にはもう一つの可能性、名詞文を用いることがままあるだろう。コピュラなしの名詞並記である。日本語でなぞらえれば「俺、うなぎ」といったところか。コピュラは通念としては「同値関係」を表しがちだから「私はうなぎだ」や « Vous êtes poisson? » には突っ込みどころが生じるわけである(「えっ、おまえ鰻なの?」「私は魚じゃありません!」)。しかし「俺、魚」型の名詞文なら印欧語でもかえって認容性が高まる。すなわち:

  • 俺、コーヒー、お願い!
  • Me, coffee, please.
  • Mir, Kaffee, bitte.
  • Moi, du poisson, s’il vous plaît.

これなら厳しいフランス語の先生もいけないとは言うまい。この手の文体では I の代わりに「独立用法」の me が、ドイツ語なら主格 Ich ではなく与格の mir が、そしてフランス語なら je に替わって強勢形 (tonique) の moi が用いられる。三言語それぞれ取り扱いが違うようだが、本質は同じ現象であろう。また、ことは閉集合内での選択であるから、無冠詞でも成立しそうだが、上作例ではフランス語版は部分冠詞を用いて異論を封じておく。

これら名詞文は、印欧語比較文法を中心とするローカル概念である「コピュラ文」よりもはるかに遍在しており、それぞれの言語で特別な意味を負っていることがある。とりわけ名詞文とコピュラ文が併存する言語では、名詞文が「恒久的、普遍的」な含意を帯びて、「一時的、即物的、状況依存的」なコピュラ文とニュアンスが形作られるケースが多い。また当該言語の時制アスペクトのレパートリーにアオリスト(ギリシア語の不限定過去)のような項目が備わっている場合には、さらに含意の分掌は複雑となる。

きょうはかまぼこ

「俺、魚」で思い出したが、これはうなぎ文の素晴らしい例だ:

きょうはかまぼこ

ボクさかな、/きのう海、/きょうはかまぼこ。

ウェブ上に広まった一枚で、著作権者はどなたなのだろうか、もはや元がどこからきたのか判らないが、名詞文型うなぎ文の表現性を余すところなく掬い取って、しかも一文にえも言われぬ悲哀が漂っている。泣かせる。名コピーである。三行それぞれにおける前項と後項の関係が、いずれもまったく異なっているところがうなぎ文の懐の深さを表している。もはや「かまぼこ文」とでも命名したい。

pugnabuntur!「ならば戦争だ!」

さて、これは厳密にはうなぎ文とは少しトピックがことなるのだが、個人的に注目している文法事項がある。それはラテン語やドイツ語の非人称受動という文体である。英語ではこれに形式所相や再帰代名詞構文、フランス語なら代名動詞や不定代名詞 on の使用などが対応する。比較文法の用語で言うと「ミドルの問題」すなわち「受動・中動態」をめぐる議論である。畏友小倉博行がずっと追っている問題系であり、わたしも陰ながら類例を集めている。

つまりは「行為者(=一般に考えられる主語)」の明示をしばしば伴わない文体のことだ。英語やフランス語は客体の方を主語に据えたり(受動化あるいは主語昇格)、再帰的な代名詞を置いたり(再帰化)、曖昧な不定主語(たとえば they や on)を持ち出したりして対応するのだが、それをラテン語、ドイツ語では直截に「主語無し受動文」や「無意味な Es を置いた受動文」で表すことがある。とりわけ、他言語では受動化の対象とならない「自動詞の受動化」の例が古くから議論の的になっている。

おそらくこれは通常の意味での「受動文」ではない、「主語昇格」の埒外の構造化であるとするか、あるいは「受動」と呼ばれている態の内包をドラスティックに見直さなければならない。私見では後者が生産的であろうと考える。「コピュラ動詞定型と完了分詞」、あるいは形式的な(活用形としての)受動形の機能的本質は、おそらく「行為者(する)・被行為項(される)の対立」や「主格・対格の変換・昇格関係」などよりも抽象的な層から下りて来ている。

これについてはまた別に議論したい。というかこのブログの主題には重いかな。

さて唐突にハードコアな一般言語学的主題を持ち出したのには訳がある。上の非人称受動、主語無し受動であるが……これ、日本語に対応をとるとしばしば「うなぎ文」になるんじゃないだろうか……?

漫画『ヘルシング』の中の名ぜりふ「よろしい、ならば戦争だ!」はラテン語に訳すなら、この非人称受動がよかろう。

  • nunc autem pūgnābuntur ! ヌンク、アウテム、プーグナーブントゥル!

「今日はダンスだ」

ドイツ語の自動詞非人称受動のつとに有名な例はこれである。

  • Heute wird getanzt.

逐字的に訳せば(そうすると本質を損なうと思われるが)「今日、踊られる」とでもいったところか。主語無しで tanzen 自動詞「踊る」が受動化している。意味は「今日はダンスだ」「今日はダンスのある日だ」といったところ。主語として「空主語 Es」を補えば:

  • Es wird heute getanzt.

のごとくである。これも「今日はダンスだ」の謂となる。

  • Jetzt wird geschlafen!「さあ、今はもうねんね(の時間)だよ!」

など類例はままある。

この非人称受動は使用制約がきつく、井口英子「非人称受動の用法」東京外国語大学大学院ドイツ語学文学研究会編『DER KEIM』Nr. 8(1984)所載、がインフォーマントに動詞制約の調査を行っている。ここでは当該論文から認容度の高かったものを挙げる。一部、字をあらためた。訳は引用者私訳。

  • Heute wird noch gearbeitet. 「きょうはまだ仕事だ」
  • Dort wird laut gelacht. 「一座は大笑いだ」
  • Dort wurde heftig gekämpft. 「戦いは激しかった」
  • In Japan wird viel gelernt. 「日本は教育熱心だ」
  • Jetzt wird gesungen. 「さ、今は歌(の時間)だ」
  • Jetzt wird bei uns schon geheizt. 「今やうちはぽかぽかだ」
  • In seinem Unterricht wird nur gelesen. 「授業中はただ読んでばかりだ」
  • Dort wird geraucht. 「あたりは煙がもうもうだ」

うち幾つかは、ちょっと恣意的な訳かも知れないが、うなぎ文で対応しようとするのは大枠適切なのではないだろうか。

末筆ながらドイツ文法からもう一つ。「私は〜という意見である」というのも厳密にはうなぎ文に含まれるだろう。主要部分は「私は意見である」と言ってるのだから立派なうなぎ文だ。ドイツ語ではこの日本語うなぎ文にぴったり対応する文になる:

  • Ich bin der Meinung, dass es ein Aale-Satz ist. 「私は、それはうなぎ文であるという見解である」

(追記:と思ったが、これは属格が利いていた。思えばフランス語でも同じだった。

  • Je suis d’avis qu’il est une phrase-anguille…

というわけでうなぎ文に期待される(表面上の)論理的不整合は認められない。正当なうなぎ文たるには Ich bin die Meinung… でなければ。この段については勇み足として不明を恥じ、論旨を引っ込めておきます。)

「それは食べ物ですか」

最後にフランス語の、これもうなぎ文問題の系に入れておけるのではないかと見ている例を。

フランスの小学校の教室で、日本に言う「二十の扉」をやっているのを見たことがある。oui ou non で答えられる全体疑問を積み重ねて、出題者が思い浮かべているものがなにか当てるという遊びだ。

Est-ce que c’est vivant ?「生き物ですか?」
— Oui.
Est-ce que ça vole ? 「飛ぶ?」
— Non.

といった具合である。さてここで「それは食べ物ですか?」と聞きたかったら、どう聞くか? 頭の固い私などは « Est-ce que c’est de la nourriture ? » なんぞと「仏作文」してしまいそうなところだ。子供たちならばむしろこんな風に聞くだろう:Est-ce qu’on en mange ? あるいは Est-ce qu’on peut le manger ? といった具合。実際そうした質問が上がった。ところが先生は出題者が問いに答える前に、この質問をやんわりと窘めて、質問文を改めた。ここは簡潔にこう聞くのだ:

Ça se mange ?

「それは食べ物ですか」あるいは「食べられますか」といったところか。むろん代名動詞による再帰構文の構造で、なんなら「それは自らを食べる」とでも読めるかたち。

フランス語代名動詞の用法は「再帰用法・相互用法・受動用法」などと分類されている。訳し分けるなら、再帰は「自分を食べる」、相互は「互いに食べ合う」、受動は「食べられる」といった訳語に落ち着く。ここではさしずめ受動的用法あたりにあたろうか。

しかしここでの和訳「食べられますか」の「食べられる」は可能・不可能の「られる」であって、狭い意味において、これははたして「受動」なのかどうなのか。

私自身は「受動」と呼ばれている文法事項の内実をかなり拡大して(抽象化して)捉えているから、これが「受動」と呼ばれることには差し支えは感じない。せいぜい下手な命名だというぐらいのことである。ただ「受動」というのが「受け身」すなわち「〜される」の意味に他ならぬと頑なに信じている人には、普通に言う受動性の有無は死活問題である。もっともそれは偽の問題だ。偽の死活問題……

「食べ物」は、上の伝では厳密には「食べられる物」であるが、ここでは名詞化に際して能動・受動の対立が中和されている——「食べられ物」などとは誰も言わない(遠山一郎)。それと同様に Ça se mange ? の受動用法も、能動・受動の対立における「受動」を意味しているのではなさそうだという気がする。

ここはむしろこう訳してみたい。

それ、食べる?

この「うなぎ文」で過不足無しだろう。論理的には「それ」は「食べられる」のであって、「食べる」側ではない。しかしここでは「それ」と「食べること」を並置 parataxe することで文意には足りるのである。「する・される」という区別の係(かかずら)う話ではない。

私は「上のようにも訳せる」のではなくて「上のように訳すのが正しい」のではないか、と主張しているのだ。つまり、この代名動詞は「能動も受動もへったくれもない用法」であって、代名動詞の用法分類を云々しても仕方がない、その本質はうなぎ文的な事項の単純並置にある。さらには代名動詞や非人称受動などの用法には、その根本に、かかる「能動も受動もへったくれもない世界」の表現という重要な使命があるのだ、と主張したい。かつて古代語では中動態が果たしていたはずの役割を、まだ誰かが請け負わなければならないのだ……

そんなわけで、魚屋の氷の上にマグロの切り身を見つけた場合、それが生食用であるかどうか聞きたければ——こう聞くのである:

これ、生で食べる?
Ça se mange cru ?

広告

The URI to TrackBack this entry is: https://marginaliae.wordpress.com/2013/06/10/%e3%81%86%e3%81%aa%e3%81%8e%e6%96%87%e3%81%ae%e4%b8%80%e8%88%ac%e8%a8%80%e8%aa%9e%e5%ad%a6/trackback/

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。