中二病、あるいは厨をめぐる用語史抄その1

前々エントリー「流行り言葉の栄枯盛衰:ギャルとフェチ」を承けて続く:

今回のテーマは「中二病」ないし「厨二(ちゅうに)、厨(ちゅう)」という言葉である。もっともこのエントリではこの用語の変遷を瞥見することばかりが主眼であり、ここにことさら新しい知見は登場しない。ネット言説に平生触れている者ならば周知の事情を時系列に則して整理しただけの記事である。

「厨二」はウェブ上のジャーゴンの立場を脱し、すっかり世間に定着しつつある。同時に前エントリー(流行り言葉の栄枯盛衰:ギャルとフェチ)に触れたような、流行語には不可避である「語義の変転」が当然のこととして見受けられる。ところで、その変化に興味深い部分——珍しい分化が生じている。この言葉はちょっと面白い変転を辿っている。一言でいえば「同時に片極化し、拡大もしている」のである。意味が「狭まっ」ていると同時に「拡がっ」てもいる。こうした自家撞着がどうして生じたのであろうか。

まずは一つ目の出発点となる「中二病」の小史を概略的に追ってみよう。中二病の歴史を通して、その意味がどんどん狭まって先鋭化していくことを確認する。

中二病の原義

この言葉「中二病」の震源地となったのは、いわずとしれたラジオ番組 TBS『伊集院光のUP’s深夜のバカ力』のコーナー「かかったかなと思ったら 中2病」であった。ここではコピペ部の表記は、放送の要旨を書き起こしたサイト(ミラーサイトのリンク)に従うが、いささか表記を改めた。

1999年01月11日に新コーナーの立ち上げに際して、ネタ募集の例題として伊集院が挙げた中二病の症例は、たとえば次のようなものであった。

  • こんな事を言い出したら中2病。「因数分解が何の役に立つんだよ」「大人は汚い」
  • 本当の親友探しを始めたりする。
  • お母さんに対して激高して「プライバシーを尊重してくれ」と。
  • 急に洋服のトータルバランスはそのままなのにジェルを使い出す。
  • 「ジャンプなんてもう卒業じゃん?」って言ってヤングジャンプに軟着陸する。
  • エロビデオを持っていることに対するすごい自慢。

すでに中二病の何たるかは相当にはっきりしている。要するにこれは「若気の至り」でやっていたことの「告白」のコーナーだったのである。僕の私の「黒歴史あるある」とでも言おうか。

中二病の最初期症例報告

後に一世を風靡することになる「中二病」という言葉を、その自己反省の色合いを、当初からリスナー(および投稿者)は正確に理解している。もっとも実際には投稿の中に例外もあり、かかりつけの女医(伊集院)に「これは小四病」とか「ある意味『桃好き』、ただの食癖」などと別の診断が下されることもあったようだ。やはり素人の自己診断は危険なのである。

後に広く世間に認知されたものであるにも拘わらず、このコーナー自体はあまり長くは存続せず、たかだか九回(同年03月22日まで)で終了している。その間、担当医から中二病であるとの診断が下ったものをほしいままに抜粋してみると:

  • 母親が何か言おうとしよう物なら、その声にかぶるように「わかったよ!!」と言って聞かない。
  • 母親が自分の隠しているエロ本を黙認していることが嫌で嫌で、急にエロ本を清算する。
  • 自分が卒業したばかりの小学校に戻り、かつての担任などに会ったりするOB気取り行動。
  • 母親に「どこ行くの?」と聞かれて、「外」
  • 「僕は僕で誰かじゃない」と言い出す。
  • プラモデルやプロ野球カードなどこれまで自分がコレクションしていた物が物凄く子供っぽく見えるようになり、急に処分する。
  • 「もっと良い家に生まれたかったなぁ。どんな家でもここよりは良いはずさ」
  • 自動販売機では、量が少ないコーヒーばかりを買い始める。
  • サラリーマンの事を『歯車』、ポリスマンの事を『権力の犬』、学校を『ダメ人間工場』などと呼び出すようになる。

上のごとくである。なんだか「お母さん」がよく登場するのだが、ここ大事、という感じである。

中二病の二つの表徴

上のような典型例から二つの表徴を読み取っておこう。

1)後に失われていく特徴であるが、この時点での中二病は明らかに「己の中に振り返るべきもの」であって、「人を嘲り腐して笑うもの」ではなかった。むろん全てが自己申告であるとは限らないが、大枠で言えばこれは「自虐の詞(うた)」だったのである。後年の「余人を厨二と指さし嘲笑うような用法」を「誤用」と考える向きがまだ残っているのも至極むべなるかなという感がある。

2)「己に振り返るべきもの」というポイントとも重なる論点であるが、中二病はある特定の人だけが罹患する特殊症例ではない。これは万人に心当たりのある病、だれもが一度は通過する病であり、さらに言ってしまえば単に通過(スルー)するのではなく、ちゃんと罹っておくべき病なのである。あたかも精神の麻疹である。

中二病は「14歳の病」ということだろうか、むろん第二次性徴と大いに関係がある。少年少女が身体的な性的二形を確立するのと同時に起こる、精神の第二次性徴こそが中二病の本質であり、ルソーが「第二の誕生」と呼んだものである。日常的には普通に「反抗期」と、発達心理学なら「思春期の葛藤」と呼ぶだろう。中二病では、特にこの少年少女の「自我の目覚め」の青臭く痛々しい側面に注目が集まっている。

自我の目覚めに際しての「空回り」、勢い余った「若気の至り」——それが症候のかたちで取り出され、自らの青さ・痛さが苦笑を交えて苦々しく思い出される。あの時わたしは中二病に罹っていた……

罹患時病識なしが普通、常に既に既往症

中二病はその性質上、罹患時にはほとんど自覚症状を伴わない。中二病は必ず「罹っていたことを後になって思い出す」ものなのだ。未来において遡行的に来し方に投射した時にしか立ち現れてはこない……「既往症」としてしか自覚されない病である。

加えて絶賛罹患中の患者に対して、その症候を正しく見分けている周囲の親・兄姉、あるいは教師なども、中二病の故に起こる様々な人間的不都合を、それとしてことさらに指弾・追及したりはしないものである——自分にも覚えのある症候だからだ、誰もが通る道だと知っているからだ。いかに傍ら痛くとも、そっとしておくより仕方がない。早晩みずから気がつくものなのだから。

自らにこの病を思い起こし、またその時自らが周囲にどう見られていたかを振り返る時、ひとは己の痛々しさにしばしば悶絶するのだが、この自己反省の眼差しが中二病の痛ましくもほほ笑ましい色合いを決定づけていた。

中二病の変質

ところが、他者を指さしてその痛々しさを突き付ける時、「中二病」の一語は変質していく。それは痛々しくもほほ笑ましい自虐の詩から、身も蓋もない嘲りと罵倒の表現に堕していくのである。これはネガティブな含意のある言葉では容易に起こること、とりわけカテゴリー化、ラベリングというものの弊害である。我々は臨床的な精神疾患や障碍を表す語彙が、容易に「悪態」に変じていった例をいくつも知っているはずだ。また、古くは例えば「アプレ」「太陽族」「ぶりっ子」、最近なら「ゆとり」「草食系」「アラフォー」「リア充」……あたかも流行り言葉は時々の罵倒語の陳列棚の様相を呈する。本来ネガティブな含意のなかった言葉ですら簡単に罵倒表現としてのステイタスを獲得する。悪意・嫌悪の対象となることが流行の条件であるかのようだ。

むろん中二病も例外ではない。「中二病」は侮蔑と否定のための語彙と化し、他人に投げつけるための言葉になっていった。

開祖伊集院光はこの段階で「中二病」ということばは「自分の手を離れた」と述懐している。

俺はなんかそこに関しては、無責任なようだけど/「原型はそうだった」ってことしか俺には言えない、/言葉って進化しちゃうから、「原型はそうだった」としか言えないし。

そしてこの一語の発明者としての責任は放棄し、以後これについては口を噤むと宣言したのである。要するにもう「私の言葉ではないよ」と。これは無責任というよりは、無理からぬ成り行きである。流行語となった段階で、それは発案者の意図とか、原義とかいったものとは切り離されているのである。前エントリーで見たように、もともとの文脈を失うのが「流行語となること」の一つの条件を成しているのだから、これは当然だ。言葉が流行るというのはそういうことなのだ。

自意識の問題

ところで思春期の「自我確立のための葛藤」の表現形であるところの中二病には、幾つかの類型があり、共通の特徴的症候が観察される。

中二病の本質である「自我の目覚め、自我の模索」というのは、要するに「僕って、私って誰?」という問が自らに生じるという事態だ。第二次性徴に伴い、自分が性的存在であることが初めて自覚され、そしてその自覚は同時に親もまた性的存在であることの発見にも繋がる。それまでは自分は対象たりうる「自己」ではなかったし、社会や世間、その枠組みの代表であり象徴ともなる親(日本ではとりわけ母親)との同一化は疑われてはいなかった。発達心理学としてはいかにも俗流で大ざっぱな議論であるが、第二次性徴にともない思春期の少年少女は「自らを対象として見る」ことや「親を対象として見る」という、大きな認識的断絶を経験することになる。

中二病がすぐれて思春期自意識のもたらす症候であるとすれば、そこには症候を貫く二つの軸が生じる。一つは、今まで曖昧だった「自我」と不可分だったもの、すなわち社会や親に対する距離感・忌避感が俄に立ちあがってくるということ。もう一つは、「私は誰であるか、誰になりうるか」という自問——この難問に苛まれるということ。

もう何が言いたいかはお分かりだろう。

自我の模索とキャラ付けと

「罹ったかなと思ったら 中二病」の例題、投稿を見れば目もあやに見いだされるように、中二病の症候は「社会・世間・親を如何に否定するか」という軸と「自己イメージを如何にビルドアップするか」という軸、この二軸をめぐる問によって織りなされているのである。そしてそのための精神的努力、精神的営為が中二病症候群として顕現してくることになる。その際に、少年少女は、なにぶん初めてのことだから……往々にして「やり過ぎる」のだ。

さて、ここで「自我の模索」、もっと平たく言えば「自己イメージのビルドアップ」のための努力は、いくぶんの勇み足、やり過ぎを伴って、患者たちの行動に一つの巨大な類型を形作っていくことになる。ここから「狭義の中二病」が意味を先鋭化させていく。

その巨大な類型とはどういうものか。

「自我の模索」の極点に、中二病の象徴と言ってもよい一つの行動類型が結実する。「自我の模索」などと言うといかにも小難しいことのようだが、要は「自分をどうキャラづけるか」という問題だ。したがってその極点で起こることは自明である。

つまり中二病患者は……「自分に名前を付けはじめる」。これが中二病のもっとも顕著にして象徴的な症候である。

私を引き受けないという決断

社会や世間や親の否定、そして自分のキャラ探し、その二軸を言ったり来たりしながら、少年少女の千々に乱れる夢想は一つの収斂点を持つ。それは自己否定である。自己否定といっても、なにも自分自身を全く否定してしまうというのではない。「この私」をとりあえず否定するのである。

「この私がこの通りに存在すること」、それを引き受けることを古くは「この世に投げ出されてあること=被投性(Geworfenheit)を引き受ける」(ハイデガー)などと言ったものである。しかしここでは「もっと他の私、本来の私」を回復しようという「本来的自己の回復=投企(Entwurf)」のために、そもそもの出発点となるべき被投性……つまり「これこの通りに存在する私」がまずもって否定されている。こうなると「本来的自己」は夢想をもって物語的に回復されるしかない。先験的覚悟性なき投企である。いや、つい「哲学」してしまった。文中に「=」やドイツ語を持ち出したりと古い癖が出てしまって恐縮である。悪癖はなかなか抜けないものだ、昔はこんな見得の切り方ばかりしていたんですね。

もっとも中二病もハイデガーで切れるのかと言われれば、切れるのだ。

文脈に則して簡単に言い直せば、自我を模索する少年少女は「この私」を引き受けることなく「まったく別個の自分を妄想する」という荒技に出て、わやくちゃになってしまう、というだけのことを少し難し目に言って見ただけのことだ。「先験的覚悟性なき投企である」という部分を上の論脈での現代語に翻訳すると、「有りのままの自分を引き受ける覚悟もないのに、本来の自分を余所に探そうとする(から失敗する)」というほどのこと。

ただし、急いで言い添えておくなら、それは決して間違ったことではない。自分を間違ったところに探すこと自体は、たとえ失敗が宿命づけられていようとも間違いではないのだ。そもそも少年少女が「この通りに存在するありのままの自分」をまるまる引き受けてしまっていては、なんらの成長もはたされない。それでは「無闇に自己肯定した少年少女のままの人間」が世に溢れてしまうことになる……あれ、これはもしかして……現今の世情そのものだったり……。いずれにしても小論はいかなる相のもとにであれ「中二病」を論難・否定しようとしているのではないことに注意して欲しい。ここでの中二(厨二)病「批判」は、その必要性・不可避性を強調するためにのみなされている。

本当の私はどこにいるの?

「この私は本当の私ではないのではないか」「ここは私の本当の居場所ではないのではないか」「私の親は本当の親ではないのではないか」「誰かが今にも私を迎えにくるのではないか」……

「『この私』ではない私」は純然たる夢想の対象であって、それに向けてなんらかの努力をする、実現に向けて行動を開始するといった対象ではない。そこで夢見られるのは、突然に外的要因によって告げ知らされる「本当の私」、降りかかってきた災いのように啓示される「本当の私」なのである。

かくして少年少女は「全校生徒の前でバンド演奏する、才能を隠していた私」や「テロリストを華麗に撃退する、実はとある組織のエージェントだった私」や「魔界と繋がりがあって、真実の世界を見極める眼力をひとり持っている私」や「この身体を依り代とする異形の別人格を宿した私」や、あるいはシンプルに「前世」などなどの間違った自分を発見してしまうわけである。

自分は本来「引き受ける」ものであり、どこか余所に探してしまったのでは本当は見つかるわけがない。「だって探している人と探しているものが一緒なんですよ。見つかるわけないじゃないですか!」(ジェーン・スー)、至言である。レバーに銘じておきたい。

そして、「これこの通りにある私」を象徴するもの、ただただ受動的に引き受けるしかない「私の被投性」を象徴するもの、それは私の「名前」にほかならない。しからば自分のキャラづけの為に荒技に出て、自我を余所に探しに行ってしまった少年少女が、まずは「自分の名前」を否定することになるのは理の当然である。そして自分の名前の否定は、行為としては「自分に名前を付ける」こと……「本当の名前」を付けることによって果たされる。

ロールモデルは漫画やアニメ

漫画やアニメ、ラノベなどのサブカル作品において第一話・第一章あるいはプロローグが「こうして僕の何の変哲もない日常は終わりを告げたのだった」という具合に結ばれる例は引きも切らない。こうしたファンタジーが量産されるのも故なきとはしない。当該ジャンルが「この私ではない私」を模索中の少年少女を需要層の中心に据えている以上、とうぜんの挙措といえよう。私をめぐって「なんの変哲もない日常が終わりを告げる」ことこそが、少年少女が己に待ち望んでいる最高最大のファンタジーなのだから。

かくしてサブカル作品の提供するファンタジーは「ありふれた日常の終焉」を再生産し続けるのである。これは中二病的自我模索の欲望の、結果でもあり、原因でもある。結果であるというのは、中二病的妄想を鋭意育みつつある少年少女の妄想に応えるという使命のもと、これらファンタジーが生産されているにほかならないから。そして原因であるというのは、中二病的妄想によって「本来の自己を回復」しようとする少年少女が、こうした物語の登場人物をロールモデルとして、自己像に取り込もうとするからである。マッチポンプと言おうか、完全に円環が閉じているのである。

少年少女の閉塞した日常には自己イメージのロールモデルとなるべき存在が漫画やゲームの中にしかないからだ、などと安易なゲーム脳的結論に飛びついてはなるまい。これは単純な因果関係ではない。中二妄想と物語のマッチポンプは、単純な因果律ではなく、すでに循環構造の中に取り込まれている。この円環の閉塞がなにを契機に始まるのかが問題なのであって、任意の地点から原因に遡行したのでのは、ことの本質を見誤る。理屈と膏薬はどこにでもつく、原因・理由なんてどこからだって簡単に拵えられるのだから。

問題は自我模索の運動が捕縛された円環の理……じゃなかった、「円環構造」そのものの方である。中二病罹患者は物語との同一化を試み始める。一つの手段は「自己の物語化」である——たとえばメアリー・スー型ファン・フィクションを「創作」することで、少年少女は自分を物語の中に滑り込ませる。もう一つの手段は「物語の自己化」である——「この私」の日常のなかに、彼らは物語の劇的設定を侵入させはじめる。「この私」に裏設定があることを妄想するのである。

裏設定は漏れでてなんぼ

かかる「私の裏設定」は、ただ妄想されているだけならば、さしたる障りもなく日常生活と共存していられる。そもそも自分自身に何らかの裏設定を拵えてみたことのない人というのも少ないだろう。ちょっと想像力のある人間なら誰しも多かれ少なかれ手を染める体の自然な妄想である。誰だって脳内ではけっこうバカみたいなことを考えているものだ。

だが一般に物語の裏設定というものは「表」に適宜ちらつかせられるべく設定される。当然それと同じように、こうした自我模索中の中二病患者の「私の裏設定」は脳内に留まっているばかりでは足りなくなってくる。重篤症例では、内心の自由を発揮してほしいままに脳内妄想を駆け巡らせるばかりでは、不足を覚えるようになってくるのである。

それというのも「私の裏設定」は周囲にも「ちらりと垣間見られる」ものでなければならないのだから。「私の裏設定」は「ときどきは余人の目に触れてしまう」のでなければならないのだから。「この裏設定」、人目を忍ぶ秘密のものだけれど……ほんとうに隠しとおしてしまったのでは……お話が始まらないのだから!

そんなわけで理の当然として、脳内妄想は漏出を始める。漏れでてなんぼ、なのである。

「本当の私」のお漏らし

中二病重篤症状の主要な症候はこれ、「本当の私」のお漏らしである。一番漏れてしまってはいけないところ(典型例は教室)でお漏らししてしまうのが肝要な振る舞いである——ほとんど文字通りの意味でこれはプレイなのだ。それもかなりディープな。

「漏れるもの」はもちろん「本当の私の名前」であり、同時に「私の隠している特殊能力、あるいは私に課せられた桎梏、の名前」である。先に「自分に名前を付ける」ことが中二病の重要徴候であることに触れたが、患者が「自分」の次に「命名」をこころみるのが、「私の隠された異能」の名前なのである。末期患者はほとんど漏れなく、いや皮肉にも常にお漏らし状態を保っているのではあるが——漏れなく膨大な時間を費やして、自分の能力名・技名、あるいは属性・ステイタス構造、場合によっては強さ序列や前世における人間関係などを、どこかから借用しては組み立てているものである。

膨大な時間を費やすわりには、出来上がりはだいたい同じようなものになるのだが、それは仕方がない。前項に触れた通り、もう円環は閉じているから、陽のもとに新しきものなし。

ここで中二病的裏設定のなかでも、症候の代表例……というか症候群全体の代表名の地位にまでたどり着いた有名な言葉に触れねばなるまい。「邪気眼」である。

邪気眼妄想としての厨二病

「邪気眼妄想」は中二病妄想の典型例として、ほぼ「中二病」という言葉そのものに代替が利くほどの豊かな内包をかかえることになった。魔眼とか邪眼とか邪視といった言葉はさして新しいものではない、ギリシャ神話やラーマーヤナにもでてくる、怪異譚に登場して2500年のレギュラー属性だ。もっとも今日に「邪気眼」と言った場合の直接の原典はこれである:

中学の頃カッコいいと思って怪我もして無いのに腕に包帯巻いて、突然腕を押さえて「っぐわ! ……くそ! ……また暴れだしやがった……」とか言いながら息を荒げて「奴等がまた近づいて来たみたいだな……」なんて言ってた。クラスメイトに「何してんの?」と聞かれると「っふ……邪気眼(自分で作った設定で俺の持ってる第三の目)を持たぬ物にはわからんだろう……」と言いながら人気の無いところに消えていく。

テスト中、静まり返った教室の中で「うっ……こんな時にまで……しつこい奴等だ」と言って教室飛び出した時のこと思い返すと死にたくなる。

柔道の授業で試合してて腕を痛そうに押さえ、相手に「が……あ……離れろ……死にたくなかったら早く俺から離れろ!!」とかもやった。体育の先生も俺がどういう生徒が知ってたらしく、その試合はノーコンテストで終了。毎日こんな感じだった。

でもやっぱりそんな痛いキャラだと、ヤンキーグループに「邪気眼見せろよ! 邪気眼!」とか言われても「……ふん……小うるさい奴等だ……失せな」とか言ってヤンキー逆上させてスリーパーホールドくらったりしてた。そういう時は何時も腕を痛がる動作で「貴様ら……許さん……」って一瞬何かが取り付いたふりして「っは……し、静まれ……俺の腕よ……怒りを静めろ!!」と言って腕を思いっきり押さえてた。

そうやって時間稼ぎして休み時間が終わるのを待った。授業と授業の間の短い休み時間ならともかく、昼休みに絡まれると悪夢だった。

引用にあたり句読点、約物を通常のものに直し、改行位置を適宜改めた。「原文を尊重しろよ」という見解もあるかと思われるが、上のコピペ引用自体が再編集の施された一種の「流布版」であり、実際には原典における三つほどの「レス」をコンピレーションしてあるものだった。こうした高名なネタは「コピペのコピペ」となって「孫コピペ、曾孫コピペ」が様々な(膨大な数の)まとめサイトに散在する。コピペでは「誤記継承」のような時系列をマークする表記よれがまったく起こらないので、いきおい「写本系統」が明らかでなく最古の例を捜しあぐねることが多い——流行語の宿命に似た部分がある。つまり元来の発信地点が忘れられ、もとの文脈を失ってしまうこと、ここに「流行」することに必須のトレードオフが存する。

原文のままで再引用したい向きはここからコピーせずに、お手数でも原文をウェブ上に求めて欲しい。「邪気眼」コピペについては、おそらく元ネタは 2006年2月12日 2ch、ニュース速報板(v速板)『過去の失態を告白してみんなで奇声を発するスレ』の「276名前:ν速民:2006/02/12(日) 06:32:24.10ID:hTmxoedt0」。元スレのログにまで遡れずとも、原文にあたりたければ例えばこのサイト(リンク)などには編集前の形が残っている。「邪気眼」ではなく「ID:hTmxoedt0」を検索ワードとするのがコツである。(余談ながら邪気眼は「邪鬼眼」といった用字が本来のものとして想定されるが、一般に「邪気」が通じている)

まことに見事な中二病症例の告解である。テスト中の「お漏らし」の逸話など、簡潔な叙述のなかにも、その隙の無さにうたれる。そもそも『過去の失態を告白してみんなで奇声を発するスレ』というスレッドのコンセプトそのものがすでに熟成の域に達している。これは起源的な意味での中二病と同じく、自虐の詩の陳列棚だったのだ。

このコピペから「邪気眼妄想」という用語が自然発生し、これはこれで一つの「ジャンル」の名前となった。

多重人格はみんなの憧れ

もう一つ、つとに知られる典型例を挙げておこう。

中学生の頃、妹は二重人格だった。

なんでも、火を見ると「影羅(エイラ)」という魔族の人格が現れるそうで、真っ暗な部屋の中で唐突にマッチを擦っては、「……ヘヘ、久しぶりに外に出られた。この小娘は意思が強すぎて困るぜ(笑」などと乱暴な口調で叫んだりしていた。

ある日、夕食の時に「影羅」が出たことがある。突然おかずの春巻きを手掴みでムシャムシャと食べ始めて、「久々の飯だぜ(笑」と言った。

食べ物関係のジョークを一切許さない母が、影羅の頭にゲンコツ振り落とすと影羅は涙目になっておとなしくなった。それ以来、食事時に影羅が出たことは無い。

そして別人格とやらは、妹が高校に入った辺りでパタリと出なくなった。

最近になって、大学生になった妹にその頃のことを尋ねたら、クッションに顔を埋めて、手足をバタバタさせてのた打ち回っていた。

典型的な邪気眼症例である。しかし意外なことに、こちらの方が「邪気眼」よりも成立が古いのだった。

2ch、生活全般板の「782 おさかなくわえた名無しさん sage 04/06/23 09:36ID:BGcCJqrx」のレス番のもとに書き込まれたものが原典の様な顔をして流布しているがすでにコピペ。同人コミケ板の「もっともっと厨時代の自分を晒せpart5」に見る「819 名前:名無しさん@どーでもいいことだが。[sage] 投稿日:04/06/21 03:01ID:L88saJLL」の方が僅かに(二日)古い。管見の限りではこれが原典と思われる。http://www.logsoku.com/r/doujin/1078914414/などにログ(完全版)が残っている。

元スレの傾向からすると想定される筆者は「姉」である。ただし付言せざるを得ないのは「まさかとは思いますが、この『妹』とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか」という可能性……。というより「友達のことなんだけど……と口火を切ったが実は自分のこと」の法則が発動しているような気がしてならない点である。真っ暗な部屋(当然扉は閉じられているのだろう)の中でマッチを擦る姿が「報告」されている点、さらには「妹」の自称する別人格「影羅(エイラ)」に正解と思しき特殊な漢字表記が与えられているあたりに……なにか追及することが憚られる、ある種の闇が感じられる。

邪気眼症例の様々な例

完成度の高い症例を二つ見ていただいたが、他にも有名な例は挙げればきりがない。以下、いずれも高名な症例であり、かかる症例報告はさまざまな場所に転載されているので、ここではキーワード(冒頭か、さわりの部分)を挙げるだけに留めよう。

関心を持たれた向きは是非とも各症例報告の全文にあたっていただきたく、簡便のため各項を Google検索結果へリンクしておいた(まとめサイト他のコピペはサイト閉鎖に伴い消失することが多いと見たため)。こんなことのためにクエリータグ付けのための簡易スクリプトまで組んでしまった私のことも笑っていただきたい。一個いっこリンク貼ったほうが早かったな。

いずれも前項二例に負けぬ、香ばしさ痛々しさに定評のある好例ばかりである。そしてなんというべきか、告解というか症例報告の文体がどれもたいへん優れている。どれも簡潔にして要を得て、間断ない。2chで言うと例えば「怖い話」系のスレッドでは得々して書かれた長文の文飾の拙なさに辟易することが多いのだが、この「痛い話」の文体論的な完成度の高さはどうだろうか。なにかこうした報告をすることは、人の表現力を研ぎ澄ますのであろうか……ちょっと興味深い。

中二病=邪気眼妄想という片極化

さて、この邪気眼妄想と総称される「自己に過分なキャラ付けをする」という振る舞いは、むろん中二病の系をなすものである。しかし「親になにくれとなく質問されるのを嫌がる」とか「あまりピンときていないながらも洋楽を選好してみる」といったような穏当な中二病症例に比べると、いささか症候が重篤であり対外的な影響も大きい。端的に言って人から笑われるのである。しかも邪気眼妄想にはもうひとつ罠があって、上の如くに自己に付与された「私の裏設定」は性質上、余人には理解され難いものである。つまり実際上理解されないというより、権利上「理解されないものでなければならない」——主人公は孤独なのだ。「人に解ってもらえない」ということが裏設定の本質的な部分をなしており、余人の無理解や嘲笑にさらされることがむしろ設定を強化してしまう。「もたぬものにはわからんだろう」とはよくぞ言ったものである。

こうして世間の無理解と嘲笑に耐えることで、邪気眼妄想は自己強化のサイクルに入る。もう少しはっきりした言い方をすれば「ひっこみがつかなく」なるのである。自分で燃料をくべてさらに邁進していくしかない。当然、世間との乖離は拡がる一方となる。

この重篤症候は「他人の目につく」ことを存在与件としているから、当然のことながら他症候にくらべてよく目立つ。したがって邪気眼妄想が中二病を象徴するような症候であると考えられ、そしてやがては中二病の全体をはっきり代表するようになってくる。表記もウェブ上のジャーゴンとして「厨二」とか「厨っぽい」といった異化がマークされた用字が好まれるようになり、「厨二病」の片極化は完成の域に近づく。

基本的キャラ属性の地位を獲得

今日では厨二病罹患者を登場人物とするメタ視点含みの物語が量産されるようになったが、そこでの厨二病はたいていこの段階に達したものである。

ライトノベル、虎虎『中二病でも恋がしたい!』、昨坂まこと『俺達の中二病はまだ始まったばかりだ!』、あるいはサンカクヘッド『厨二くんを誰か止めて!』など(これは漫画作品)、タイトルそのものに「中二・厨二」の一語をあしらう例が急増中であり、業界では「中二・厨二」の語はいまや、「妹」や「魔王」なみの訴求力を期待されていることがわかる。

これら厨二作品群にはアニメ化までした人気作もあるが、ここで言う「中二・厨二病」はいずれも邪気眼妄想の域に達したものばかり、要するに重篤症例が人気の的である。それはそうだ、ちょっと背伸びしがちな反抗期、というだけでは、主要キャラを張るには弱すぎる。中二病は厨二病となり、ほとんど邪気眼妄想の同義語と化した。

現在進行形で「自分に過剰な物語的裏設定」を付与している人物——つまり邪気眼妄想に目下「夢中」の人物ばかりではない、そこから離脱して快癒した(ことになっている)人物が物語内にフィーチャーされることもままある。とくにライトノベルは主要登場人物に高校生を配置することが多い、想定読者層もほぼこのあたりだろう。

したがって中二病患者、および寛解後の要監視者というのは……読者層にも「共感が得られる人物造形」というわけだ。かくして「ちょっと前まで厨二病だった登場人物」は一編につき一人というような登場頻度を誇るまでになってきた。

もはや「金髪ハーフ(ですわ)」とか「真剣持参侍少女(ではないか!)」とか「ロリ神様(なのじゃ)」といったレギュラー類型にも伍する、登場人物の基本的属性の一に数えられている。ちなみに口癖類型としては難読造語とは別に「体言止めの多様」が観察され、いわゆる「無口読書少女」と造形が被った部分が目立つ。

後遺障害に苦しむところまでがお約束

現実世界でも、だいたい高校進学(すなわち病識を共有する学友との別れ)を機会に、厨二病の既往歴は隠蔽される。これが通常の治癒経過なのである。しかし、この際の既往歴は「黒歴史ノート」として残り、後遺障害で人を苦しめることになっている——恐ろしいことに厨二病発症時に自分の裏設定を縷々綴っていた設定ノートが既往歴の物証として残ってしまっている例がまま見られるのである。

このノートを手に入れることは、ノートの著者の生殺与奪の権を握るにほぼ等しい。まさにデスノートである。特に香ばしい部分を朗読することで、著者を悶絶させることが出来る最終兵器となる。その殺傷力を物語る好例として「デスノコラ 黒歴史ノート」を挙げざるを得まい。検索をかけてみるのが簡便だろう、著作権問題に配慮してリンクを張るのは控えることにする。

いずれにせよ、ライトノベルの「脛に傷持つ」登場人物は、しばしば黒歴史ノートを握った者の言いなりになる——ここまでがお約束である。「黒歴史ノートで脅迫」というこの説話類型はすでに「自然な展開」として斯界の常識同然に使いまわされるに至った。「黒歴史ノートで脅迫」の逸話が登場する話となると、タイトルに「中二病」の一語を冠していない物語でも、およそ枚挙にいとまがない。卑近な代表例としては『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』『カンピオーネ』『デート・ア・ライブ』ほか、すでに触れた『中二病でも恋がしたい!』など。とくに『俺の〜修羅場すぎる』においては「黒歴史ノートで脅迫」は一編の本筋ともなっている。

片極化の完成

こうして中二病は「厨二病」となり、その意味は劇的に狭まったのである。すなわち「(自分の)若気の至りの痛ましさ」一般を表していた中二病が、邪気眼妄想を嘲弄し、指弾し、さらには脅迫するための語彙「厨二病」へと変遷を遂げた。中二病は、いまや他人から責められて悶絶しなくてはならないような……負の烙印(スティグマ)と化してしまったのだ。

もはや自分の中に振り返るものですらない。それは他者に暴き立てられるスティグマに堕した。「もう手を離れた」とする伊集院の慨嘆もむべなるかな、という感がある。

次回予告:「厨」について

しかしこの片極化の動きと交叉する、もう一つの異なった語彙変遷が「厨」の一字をめぐって併存していた。次エントリではそちらに触れ、語義片極化と語義拡大を同時に果たしたこの奇妙な流行語「厨」の特殊な地位を確認したい。

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Published in: on 2013/12/11 at 16:48  コメントする  

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