観音様ご開帳

観音様……ご開帳……摩羅……昇天……極楽……

「急にどうしちゃったんですか、汚言症(コプロラリア)でも出てきちゃったんですか、お薬出しときましょうか」などとお思いになった方。何か勘違いをしておられるのではないかな。コプロラリアというのはトゥレット症候群や認知症などにみられる「猥褻語や冒涜語(ブラスフェミ)、Four-letter words を口にするのが止まらなくなる」という症状のことであるが……拙僧と如何なる関わりがあろうものかは。

愚僧はなにも猥褻語など一言も申し上げてはおらぬ、ただ羅什、玄奘の手になりつる有り難きお経を眺むれば玉章から拾い上ぐるばかりなり。「観音」も「開帳」も「摩羅」も「昇天」も「極楽」も孰れ由緒正しき仏教用語にこれあり、以て汚言などとはとんでもない讒謗(ざんばう)じや。

なに、並べ方になにやら底意を感じると、はてさて卦体なことを仰る方があるものだ、底意といひてどんな底意があるといふのか、たんなる教学上の語彙の羅列ではないか、はたして上の文言に御前はいつたい何を読み取つたというのか。何を想像してしまつたというのか、ほれほれ、言うてみるがよかろう。

穢らはしきも猥らがはしきも、畢竟するに語に元より具ふるものではない、見る目、聞く耳にあるのだぞよ。ひと指して、かつは「厭らし」かつは「淫らなり」と言ふこそすなはち厭らしくも淫らなるものと心得べし。

ちょっと悪い癖がつきそうなので普段通りの文体にもどしまして。いえ、「愚僧」なんていう一人称、というか自称でものを書いたのは久しぶりですが(前にもやっていたのか、と)これは「捗る」。社用メールや学内便などでちょっと詫びを言ったり頼みごとをしなくてはいけないのだが、あんまり謙り過ぎてもなんだしな、という微妙な案件の時に、読者の皆様もお遣い頂いてはいかがでしょうか、「愚僧」。

話戻って仏教用語ですが、本来の文脈を失ってすっかり日常語化したために、元の意味も忘れられ、そもそも仏教用語であるという由来すらが忘却の彼方にある語彙というものは枚挙に暇がありません。

縁起」と言えば本来は「万物の生起にしかるべき因縁の関わり、因果の働きがあるという道理」といったほどの意味だったでしょうが、今日では luck と同じほどの使われ方。道理がどうとかじゃなくって good か bad なものに成り下がれるは相ひ哀し。

したがって縁起に内包せられる概念「因果」といえば「原因と結果をめぐる理」といったほどの意味だったでしょうが、今日ではもっぱら「後代(や現世)に報う祖先(や前世)の悪業」とか、たんに「めぐりめぐった不幸」といった具合。

投機」の勝義を大辞泉は「師家の心と学人の心とが一致投合すること」と説きますが、今日では「価格変動を利して利益を上げようとする(とくに証券の)売買」が第一義ではないか。

投機して上げてみたいところの、その「利益」自体がもとはといえば「仏の恵み」といったほどの意味、そいつが読みまで曲がって「事業から得た利潤」といった狭義に収まる。どうも生臭いので有名な証券業界というのが俄然信心深いものと見えてくるから面白い。「俺はな、投機にうって出てな、これだけの利益を得たぜ、いやほんとの話」っていう台詞が「愚僧は、修業の機根が叶って禅の神髄に投合し、神仏の利生を得るに至りました。アーメン」っていうような含みになってしまう、これは生臭いどころか涅槃の境地で、天国も見えた。

分身」なんていうものも由来をたずねれば「仏が救世のためにこの世に化身をなして現れ出てくること」なんていう意味だった。こうなるってぇと……忍者の「分身の術」ってのは敵を欺きやっつけるどころか、救世観音か阿弥陀如来か知らないが——この二柱が救世をお役目とする二大巨頭ですから——それに化けて出てやって、救ってやって昇天させて、西方極楽浄土に送ってやる術だったっていうことになる、ありゃ、あるいみ結果は同じか。

マンガ「NARUTO」の百分身なんていうのはもう……(ええ、あんまり知らないで言っておりますので細かいところはお許し頂きたいんですが)、救世観音が百体から化身して、もう寄って集って救ってくれよう救ってくれようとする、こうなるってぇと相手のサスケ(?)の方もこっちの手を逃げればあっちの手に救われちゃうし、あっちを掻い潜ればこっちに救われちゃうし、もう救われないでいる余裕もない。救世観音ならまだしも、分身を出したのが千手観音だったらこれはサスケも大変だ、つごう一〇〇〇〇〇の手が救おう救おうと伸びてくるわけで、一手かわしてもまだ九万九千九百九十九の手が待っている。即、昇天。極楽。浄土。観音様。開帳。摩羅。いや摩羅はこの際関係ないか。

だが汝にまことにまことに言っておく。穢らわしきも猥れがはしきも、見る目、聞く耳にあるのだぞよ。

世間」というのは「浮き世」「現世」に同じこと、迷える衆生の行き交う巷のことで、大辞林によれば梵語の loka に淵源するという。するとラテン語では locus、もっと良く知られた語彙で言えば英語の local とか location と同根ということか。なるほどこれが「世間は狭い」ということだ。

仏教用語に梵語由来は当たり前の話で「旦那」が欧米なら(臓器などの) donor, donneur、「達磨」が darma(法)、「卒塔婆」が stupa で英 tower や仏 tour の語源と繋がるというのは良く知られた話。妻の実家の旦那寺では法事の度に住職が話すのが「卒塔婆はストゥーパから来ている」という話で、これを聞くたび私はオチをつけたくって仕方がなかったものだ。つまり東京タワー、新東京タワーは語源に従えば「東京卒塔婆」「新東京卒塔婆」ということで、エッフェル塔も実に「エッフェル卒塔婆」ということになる。世界中に卒塔婆が立っている、もう大変なものだ。

他力本願」は成仏をことさらに願うのは衆生自身の無益な囚われ、本来は阿弥陀仏の本願で為されるものなのだという教え。だから「南無阿弥陀仏」は「がたがた言わんと阿弥陀様にお任せ、よろしくお願いします」といったほどのこと。自力で何とかするというのは浅知恵、「他力本願」が唯一の成仏の道。これなどは一語をめぐる価値観までが反対になった例である。

これは日常語になったとは言えないが「変成男子」という言葉がある。残念でしょうが「変成男子」って「男の娘」のことじゃないし、異性装のことでもない。「性転換」のことでもありませんよ……とは言えないか。女性は摩羅であり、摩羅といえば「あれ」しか思い浮かばない向きには意外かも知れないが、実はこれが正しい遣い方、つまり摩羅とは修業の妨げになる悪の囁き、この辺はキリスト教の女性観とも一脈通じる。そうなると摩羅である女は、いったん男にならないと成仏できないという話。まあ宗教特有の女性嫌悪(ミゾジニ)がある。

女性が成仏するにはまずは一遍男性になって(変成男子)、それからワンステップ増しで成仏を目指さなければ成らない。

宗教は初めからミゾジニを胚胎していることもあるし、組織宗教としてシステム化されていく間に初めはありもしなかったミゾジニを育てることがある。もっとも仏教において女不成仏の思想が広まったのはご一新後だったという話があって、歴代諸修派が女性をどう扱っているかは時代や地理に合わせていろいろだが、まず摩羅が修業の妨げになるというのは譲らぬ常識である。

話をキリスト教に移して、ヨハネの黙示録を信じれば天に行くことが出来るのは「14万4千人」の童貞だけである。そう書いてある。14万4千人の童貞の犇めく天国……ということは女はみんな地獄行きなんでしょう? これは私は地獄行きの方が好みかも知れないな…… 誰が行きたいんだよ十四万もの童貞だけが犇めいている天国、そっちこそ地獄みたいなもんだ、なんていうと仏罰が当たるか。いや仏罰が当たるわけはない、当たるなら神罰だ。もうどうでもよくなってくる。

地獄じゃ永遠の責め苦があったりして、それは辛いかも知れないけれど、ことによったら「永遠の責め苦」を受けている間にマゾヒスムに目覚めるかも知れないですよね、そしたら丸儲けじゃないかな。こうなればしめたもの、もはや「永遠の随喜」ですよ。アーメン。

ちなみにヘブライの「アーメン復誦」のもともとの意味は「その通り!」、「ごもっとも!」、「おおせの通り!」。

ところで黙示録他にでてくるこの「14万4千人の女に触れたことのないものだけが救われる」というモチーフには中世、近代を通じてさまざまな聖書解釈学(herméneutique)上の「解釈のアクロバット」が行われた。

でもそれは駄目ですよ。 「女に触れたことのない」「14万4千人の人々」(黙 14:1 他各所)というのを象徴主義的に解釈してみたり、数秘術的に計算して別の意味を考察する向きも多いけど、みんな地獄行きだからね。そういうことするのは「聖書をそのままに読まない姿勢」だから「救いを失う」んだからね。

「自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべき」(二ペト 1:20)なんだから、駄目なんだからね。地獄行き決定なんだからね。

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Published in: on 2014/11/28 at 13:13  コメントする  

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