無駄な冗語を重ねて重複使用する重言用法について

「頭痛が痛い」は良く知られた重複表現でありもはやわざと使って見せる体のもの。古くは岩城徳栄(「バカな娘」というキャラが売りだったタレント)の「持ちネタ」でもあった。なるほど「頭痛が痛い」はいかにも無用な冗語という感じがある。冗語、重複表現の代表格としての地位を確立している。

神経痛が痛い

それでは「神経痛が痛い」はどうだろうか。

「頭痛が痛い」とまったく語構成を等しくしており、論理的には冗語とすべきだが、こちらは認容できる気がしないか。「頭痛が痛む」を「頭痛がする」と訂正する人は、「神経痛が痛む」をも「神経痛がする」と直すべきだと主張するだろうか。後者は「論理的だがちょっと筋違い」な主張ではないだろうか。「神経痛がする」はわたしの言語的直感にあっては、ちょっと舌足らずな感がある。つまりわたし個人は「神経痛が痛む」の方が良いとすら思うのだが、みなさんはどうお感じになるだろうか。

だいたい神経痛というものは多くのひとが加齢とともに持病として持つようになるもので、つねづね特定の部位にぼんやりとした違和感というか、疼きを得ることになる。こうした神経に由来するマイルドな疼痛をも「神経痛」と呼ぶわけだが、これが季節の変わり目などにぐっと強く差し込んでくる。

「間接が疼くのはいつものことだけど、お彼岸にはとりわけ神経痛が痛む」

これを冗語を嫌って「校正」してしまうと、どうしてもどこか言い足りない文になりそうな気がする。

筋肉痛が痛い

あるいは「筋肉痛が痛い」はどうだろうか。この疑問を抱いた向きはあんがい多いようで、ネット上に「私は許容できるのだが、これって重複表現なのでしょうか」とお伺いをたてている例が多く見られた。もっともな疑問だと思う。

「教えてgoo」では (http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2566371.html) 「筋肉痛が痛い」を誤用とする人が多かった:

重言が許容されるのは、新たな情報が加わる場合、あるいは特に強調する必要がある場合に限られます。[改行略]「筋肉痛が痛い」は、「馬から落馬する」「頭痛が痛い」と全く同レベルです。

私に言わせれば、そもそも「馬から落馬する」「頭痛が痛い」の間にかなりのレベルの違いがあるように思う。ともかく「筋肉痛が痛い」をとがめる向きは、「筋肉痛がする」、「筋肉が痛い」、「筋肉痛でどこそこが痛い」と「校正」をほどこしてくれるのだが、「筋肉痛が痛い」という言葉が伝えているのは「筋肉が痛い」ということとは決定的に異なる事態なのではないだろうか。「筋肉痛が痛い」ときに「筋肉が痛くって」と言ったら、言いたいことが伝わらないのではないだろうか?

「どこそこの筋肉が痛い」というのは主訴としては特定部位の筋肉に特に異常を感じているということではないか——なにか疾病か特別の外傷の気配がないか。それに対して「筋肉痛が痛い」というのは久しぶりに体を動かしたせいで、たとえば背中がばきばきです、とこういう話をしているのであって、おのずから前件とは別様態のことを言っているのではないか。

ほかにも「筋肉痛が痛い」は間違いと判ずる解答者の数々を見たが——どうしてこんなにみんな自信満々なのか、わたしにはさっぱり判らない。上で責められている重複表現の方が当該の事態について簡にして要を得ているように思うのだ。校正例はいずれも拙くないだろうか。

ご飯だったら良いのか

「〜痛が痛い」の全てを四角四面に冗語だと判断する人々は、他の局面でも同じ論理を貫いているだろうか。たとえばご飯を作る時にも。

炒飯を炒める
茹で卵を茹でる。
お好み焼きを焼く。
唐揚げを揚げる。

「炒飯を炒め」て何が悪いのか。「茹で卵を茹でる」のは間違いだというのか。「お好み焼きを焼」いてはいけないか。「唐揚げを揚げる」以外にどうしろというのか。

たとえば「焼き魚を焼く」というのは上と同じ構成だが、どこか冗語をなしていそうな気もする。「魚を焼く」で足りるという気になる。ならば「茹で卵を茹でる」も「卵を茹でる」で足りるか。「茹で卵を半熟に茹でる」などとすれば差し支えがなさそうではないか。この辺は英語やフランス語での「同属目的語は修飾が付くと認容度が上がる」という現象(後述)と一脈通じるものがある。

ともかく「お好み焼きを焼く」や「唐揚げを揚げる」にいたっては、重複があるから「お好みを焼く」、「唐を揚げる」とすべきであるなどと言ったら、論理的一貫性があると褒めてもらえるだろうか。いや馬鹿だと思われるだけだろう。

「唐揚げ」や「お好み焼き」は料理名だから意味の重複にカウントしない、という判断もあるだろう。ならば「茹で卵」だって「焼き魚」だって立派に料理名ではないか。さらに、上の伝を適用するなら「筋肉痛」や「神経痛」は疾病名、ないし症状名なのであるから「〜痛が痛い」も一般的に許容されることになる。その場合には「冗語の代表」たる「頭痛が痛い」すら重複を認められず許容されることになるがどうするのか。

歌だったら良いのか

上のような「名前に作り方が書き込まれている料理名」にはすべて「作る」で対処するという方法もある。だがそれでは日本語の表現としてずいぶんやせ細ってしまってつまらない。日本語をより良く使うというのが、そもそも冗語を咎めた理由ではないのか? それが表現を貧しくしているようでは本末転倒、むしろ冗語を豊かに使い回そうという方針の方がより勝れてマッチ・ベターなのではないだろうか。

そもそも重複だ、重複だと姦しい人だって、そんな四角四面には方針を貫くことは不可能だ。たとえば歌はどうするという話がある。

歌を歌う。

これはもうどうしようもないほどに意味が重複しているが、ほかにどうしようもない。「国歌を歌う。校歌を歌う。演歌を歌う」いずれ劣らず意味が重複している。「うたうたい」といった言葉はどうするか。こんなのを意味の重複といって咎めるのはもはや愚昧ではないか。「踊りを踊る」「舞を舞う」は他にどう言いようもない。「笑(ゑ)を笑ふ」、「音(ね)を泣く」、「寝(い)を寝(ぬ)」など、文語の世界には重複のある同族目的語がまま見られる。

英語の同族目的語

上の「寝(い)を寝(ぬ)」などは「安き寝を寝」などと使うが、同じような同族目的語の遣い方が多くの言語にあり、とくに親しいのは英語の Cognate object である。「安き寝を寝」ではないが sleep a troubled sleep といったように何らかの形容をともなうことが多い。

He danced a cheerful dance.
He died a painful death.
He dreamed a strange dream.
He laughed a bitter laugh.
He lives an easy life.
He sings a song.
He slept a troubled sleep.
He smiled a charming smile.
He walked their walk and talked their talk.

知られた例文を挙げたが「寝を寝」ばかりか「舞を舞ふ」「歌を歌ふ」「笑を笑ふ」なども共通してあって面白い。同族目的語を伴う動詞には起動相(アスペクト)の非能格動詞が多い/に限られるといった類型論(タイポロジー)的な観察もあるのだが、各国語で同族目的語を許容する動詞のリストにはどれくらい重なるものがあるだろうか。

ことほど左様に重複表現とあっても自動的に避けるべしということにはならないのである。

ならばこれら正当な同族目的語と、忌避すべき冗語との間にどのようにして一律の線が引けようか。

とりわけ「頭痛が痛い」と「神経痛が痛い」の間にすら、うかうか線は引けないなと感じる私などには「重複表現を咎める身振り」はずいぶんと恣意的なもののように見える。

違和感を感じてはいけないか

「違和感を感じる」などの表現は忌避されがちだ。だがこれは「意味」というよりは「字」の重複があることが文体論的に冗長に感じられることによるのであって、誤用とされるまでのことはないだろう。ことによればこれも同族目的語の系に入れておけるかもしれない。

わたし自身は実はこの表現に「違和感を感じない」し、まして「嫌悪感を感じない」。ただ、こだわって使う価値のあるほど巧みな表現でもあるまいし、むしろ「文が下手」と思われるとしゃくなので避けておくまでのことである。

ほかに常々意識に上るのが「指さす」の用字。私は多く「指差す、指さす」などとすることが多いが、論理的にも語源的にも「指指す」と書けそうだが無意識のうちに誰もが避けているのか実例を見ない。

後になって後悔する
伝言を伝える
返事を返す
掛け声を掛ける

いずれも重言ととられそうだが、重複を省いてみるとどうにも舌足らずな感じになってしまうのが悩みどころで痛しかゆしで難しい。

RAS症候群

重複表現といえば、「RAS 症候群 (RAS syndrome)」というものがある。「RAS」は Redundant Acronym Syndrome「重複略語症候群」の略でこれにもう一言、余計な syndrome を再添加したために「重複略語症候群症候群」とでも訳すべき重複が生じている。

略語に埋め隠された語を「説明的につい足してしまいたくなる人情」を揶揄したものである。「RAS 症候群」という言い方そのものが同症の症例になっているわけだ。自己言及的な命名というか、皮肉が利いている。

日本でも定着している他の「症例」としては「HIV ウィルス」や「JIS 規格」などが常用になっている。

ATM machine : Automated/Automatic Teller Machine Machine
BB 弾 : Ball Bullet Bullet
BMI 指数 : Body Mass Index Index
DC Comics : Detective Comics Comics
FTP プロトコル : File Transfer Protocol Protocol
HAART 療法 : Highly Active Anti-Retroviral Therapy Therapy
HDD ドライブ : Hard Disk Drive Drive
HIV ウイルス : Human Immunodeficiency Virus Virus
HTML 言語 : Hyper-Text Markup Language Language
ISBN 番号 : International Standard Book Number Number
IT テスト : Integration Test Test
JIS 規格 : Japanese Industrial Standards Standards
Katana sword
Kinkakuji temple
LCD display : Liquid Crystal Display Display
MMC カード : Multi Media Card Card
PDF フォーマット : Portable Document Format Format
PIN number : Personal Identification Number Number
RPGゲーム : Role Playing Game Game
RV 車 : Recreational Vehicle Vehicle
SUV 車 : Sport Utility Vehicle Vehicle
SALT talk(戦略兵器制限交渉 (1969-1979)): STrategic Arms Reduction Talks Talk
UCCコーヒー ※上島珈琲カンパニーである
エンドウマメ ※豌豆《えんどう》豆
排気ガス

この類いで一番多いのは地名における重複であるが(上記にも「金閣寺テンプル」が見られた)、地名における重複については既に2エントリーを費やして言及した。

由来を失ってどこまでも重なっていく言葉

「江戸川橋ブリッジ」やイギリスの「丘丘丘」についての話である。

重複のある地名、補遺

「サハラ砂漠」や「ガンジス川」について。

カザフスターン共和国など

さらに補遺。

「~人の国」を意味する「スターン」に「国」を重複させる用法がある。

旧ソ連のトルクメニスターン共和国、ウズベキスターン共和国、タジキスターン共和国、キルギスターン共和国、カザフスターン共和国、おとなりのアフガニスターン共和国など……アジア中西部などはいずれも「〜スターン」と「国」に重複がある。

そもそも「スターン」は、トルクメン、ウズベク、タジク、キルギス、カザフ、アフガン等々の「〜人の国」という意味である。スターンは古代ペルシア語「 -istan 〜の国」に由来し(現代ペルシア語では -estān)、原義は「〜の多い場所」といったほどの意味だったそう。

ちなみにトルコのイスタンブルは、この -istan とは関係がない、中世ギリシア語の連語 εἰς τὴν Πόλιν(エイス・テーン・ポリス「街へ」)の転訛と見做されている。日本語ウィキペディア:イスタンブルには στην Πόλη(ステーン・ポレー「街で」)に遡る別説も触れられているが、トルコ文科省の官製百科事典『昨日、今日のイスタンブル百科』Dünden bugüne İstanbul ansiklopedisi, éd. Türkiye Kültür Bakanlığı, Istanbul. (1993) は目下の定説として前者を挙げる。

UCCはどこまで重ねるのか

例に触れたように UCC は「上島コーヒーカンパニー」の略号である。「UCCコーヒー」とすると「コーヒー」の一語に重複があるように思われるが、唱える際の「メロディー」まで思い浮かぶぐらいに定着している表現ではないか。確認までに UCC のウェブサイトへ行ってみて驚いた。

サイトのタイトルとして、トップ頁から「コーヒーはUCC上島珈琲」とある。

本家が開口一番のっけからしてがっちり重複表現で端緒を切っていた。しかも「コーヒー」、「UCC」の「C」、「珈琲」と、なんなら何度だって念を押して確認するぞ、という意気込みである。「上島」と「U」の間にも重複は隠れているだろうから、このとどめの刺しっぷりはかなり念が入っている。

重複なんか気にしていたら、こうした「気合い」は見せられまい。上の UCC のコピーにはやはり譲れないものを感じる。重言上等という感じ。

漢語に重言を見る

だいたいどこに出てきても「重言」「冗語」とうるさく言うのなら、「ますます」とか「つねづね」とか「縷々」とかどうすんの、っていう話になってしまう。

それどころか漢語全般が危ない。「広大」とか「脆弱」とか「軽挙妄動」とか「深謀遠慮」とか、いずれも「同じことを二度言っていて重言である」ってことにならないだろうか? 「是是非非」とか「磊磊落落」とか、ちょっとあからさまに「二度言っている」ではないか。

「軽佻浮薄」なんて同じことを四度言っていないだろうか。よく見ると「刻苦勉励」とか「切磋琢磨」なんていうのも同じことを四回言っている。

どうすればいいのだろうか、これ? ちょっと頭痛が痛くなってこないだろうか?

粛々と? 削減? 消去? するの? これまた全部、微妙に重複表現になっていないかな、という話である。

結論としては「日本語というものに重言は宿命」という雰囲気アトモスフィアーな空気が漂ってきていないだろうか。漢語に目を向けてみれば「そもそも重言」という言葉はどれほど多いことか。

実は重言・重複は言語の基本リソース

西欧でも重言、重複は言語の基本リソースである。

古代ギリシア語では動詞の変化において、完了系列の特徴は「語幹第一音節を繰り返すこと」である。これを reduplication(畳音・重音)と言う。例えば:

λύω リュオー「解く」の完了形は
λέλυκα レリュカ「私、解いておきました」
λέλυμαι レリュマイ「私、解かれました」

となる。「私、解かれました」というのがどういう状況か判らないが。

πείθω ペイトー「説得する」の完了形は
πέπεικα ペペイカ「私、説得しました」
πέπεισμαι ペペイスマイ「私、説得されました」

古典ラテン語では動詞の変化において、完了系列を作る方法は幾つか併存し、「語尾 -v- 添加」「母音交替」「畳音」などの別が動詞ごとにある。中でも畳音はより古層に属する完了形成法である。

tangō タンゴー「触る」に対して
tetigī テティギー「私、触っちゃいました」

dō ドー「与える」に対して
dedī デディー「私、与えちゃいました」

という具合になる。私がとりわけ好きな完了形は:

mordeō モルデオー「噛む」に対して
momordī モモルディー「私、噛んじゃいました」

spondeō スポンデオー「引き受ける」に対して
spopondī スポポンディー「私、引き受けちゃいました、任せておいて!」

二度言うのである。二度言われれば任せたくもなろう。

動詞幹ばかりではない、名詞だって繰り返しの対象だ。古拙期(紀元前300年前後)のラテン語では代名詞 se「自身」や te「汝」は適宜、sese、tute といった形に繰り返された。

普通名詞でも良い、サンスクリットの複数形には語尾変化ではなく、当該の名詞を「二度言う」ことで形成されるパターンがある。インドネシア語にも「二度言い」の複数形があり orang-orang は orang「人」の複数形である。複数形「人々」を持つ日本語にも通じたものがある。

重言上等

やはり「コーヒーは UCC 上島珈琲」に学ばなければいけない。

重言は必要なのだ。「同じことの繰り返し」は無駄ではなく、時制アスペクト論上に、名詞形態論上に、あるいは文体論上、情報論上、さまざまな審級での機能を期待されている。

重複なんか気にしていたら駄目で無益でわやな話なのだ。無駄な冗語を重ねて重複使用する重言用法は、是非とも有効に活用して役立てるべき、有用便利な表現リソース資産に他ならないのである。重言は有用便利な表現リソース資産!

大切なことなので二度言いました。

【2016/08/18 追記】:

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Published in: on 2015/10/31 at 21:56  コメントする  

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