「汚名挽回」は誤用か否か

twitter で「汚名挽回」の名誉回復が論じられている。

誤用ではない?「汚名挽回」「名誉挽回」をめぐる辞書編纂者らの議論

辞書編纂者の方々は文証が多ければ、誤用か否かとは別に「現に用いられる」という理由でまずは用例として取り上げざるをえまいし、そこに誤用であるか否かの判断が必要ならしかるべき基準のもとに判断を下すだろう。以下、手許のカードから。大御所、ベテランから最近のものまで、わりと用例はある:

  • 片山旅団に任務交替の日まで、支隊は九七〇を固守、汚名挽回に努めた。(五味川純平『ノモンハン』下)
  • 田中参謀は、俄かに活気を取り戻した。西安の兵変を汚名挽回の好機として勇み立ったのである。(五味川純平『虚構の大義—関東軍私記—)
  • 警視庁は非難されていたが、これでなんとか表向きは汚名挽回ができた。(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上)
  • 漢中から無念の退却をした徐晃は、汚名挽回の好機とばかり、まっしぐらに関羽の本陣に突入したのである。(陳舜臣『秘本三国志』五)
  • KDD。これは汚職の汚名挽回のために清新なイメージを導入したがっていた。(赤瀬川隼人『球は転々宇宙間』)
  • 汚名挽回とばかり、ピゲロの声は弾んでいた。(菊池秀行『トレジャー・ハンター』15、エイリアン魔神国完結編)
  • 「さーて、汚名挽回にピンポイント着水するぞ。終わりよければすべてよし、セーシェルの珊瑚礁が待っている〜♪」(野尻抱介『ロケットガール』)

玄人の間では「汚名挽回」をことさらに誤用とはせず、穏当なかたちで「誤用との即断」を窘める傾きになっているようだ。

私にも「汚名挽回」を誤用とする語感はない。上のような例に違和を感じない。「劣勢を挽回にかかる」などとすら言えそうに思える。ではなぜこうした用法を誤用とする見方が生じたのだろう?

「挽回」をより狭義に「〜を取り戻すこと・〜を回復すること」と捉えるならば、『「劣勢」や「汚名」を取り戻すというのはおかしな話だよね』ということになろうか。だがそもそも「汚名挽回」の「汚名」は、ほんとうに「汚名<を>挽回する」という意味で使われているのだろうか?

「汚名」は謂わば奪格相当とする試論

より一般言語学的な観点から見てみよう。日本語の格助詞の問題を、ある程度パラレルなものとして印欧諸語名詞の格体系論に引き取って、議論のフィールドを拡張してみる。

そうすることの意義は、特定の言語現象を特定言語の内部でだけ説明しようとすると、しばしば ad hoc な説明になる——それをさけて「同じ問題なら同じ説明原理で解決しよう」ということにある。つまり私は「汚名挽回」の語構成をどうとるかという一事に汎言語的な問題を見ている。無論、こうした理路には危険もあって、一言でいえば「我田引水」二言目には「牽強付会」、さらには「いろいろデリケートな差異のある諸現象を斎一的にぶったぎってしまう乱暴さ」が生じる憾みがある。行論に雑駁との自覚はあるからご批判仰ぎたい。

「名誉挽回」は「名誉<を>挽回すること」、すなわち「名誉」が「〜ヲ格(対格)相当」と見える。対して「汚名挽回」は端っから「汚名<を>挽回すること」などではないのではなかろうか。むしろ「汚名(状態)<から>挽回すること」すなわち「汚名」は「〜カラ格(奪格)相当」なのではないか。

したがって、この見方からすると「汚名挽回」のことを、「疲労回復」を補助線に理解するのはけだし卓見である。いずれも前項が奪格句相当と見える。かくして私自身は「汚名挽回」は誤用ではない、という立場。「挽回」の前にくるのはいわゆる「(対格)目的語」でなければならないなんて法はない。

私自身は使わなくとも

ただし告白しておけば「汚名挽回」を積極的に使うことは個人的に避けがちである。こういうダブルスタンダードはよくあることだ。

例えば「全然〜は否定と呼応するのが本来」とするのは「今日の偏見」であると知ってはいる。それでも私自身の言語習慣としては、「自然に」つまり「私自身の偏見に従って」、あるいは「俗情に譲って」と言ってもよいが、「全然〜」と始めれば否定で呼応した文にまとめるだろう。「全然OKっすよ」とは私は言わない習慣だ、というだけのこと。それでも「全然OK」は文法的には「全然OK」だ、と言っておきたい。

これは言語学的な正否ではなく文体論的な選好の結果である。つまり「汚名挽回」を誤りとする俗情(偏見)に逆らってまで「汚名挽回」を振りかざす積もりはないというだけのことである。いわばコミュニケーション上のロス(校閲の時に突っつかれるとか)があるから「汚名挽回」を選択しない傾向があるということ。しかしながら、これは断じて「汚名挽回」が誤用であるという判断ではない。むしろその正用を嘯きたい、これを誤用とする狭量に対しては積極的に反対したい。

なぜ汚名挽回は誤用と思われたのか

ここでこうした四字熟語を構成する語構成要素を「前項」と「後項」とする。「汚名挽回」ならば「汚名」が前項で、「挽回」が後項である。そして目下の議論においてはいろいろな語構成を持つ四字熟語のうちでも、後項に「動詞相当」の語、さらに言えば「〜スル型動詞」と取れる語を配置してあるものをとくに念頭におくこととする。

「汚名挽回」が「誤用」とされたのは、前項を対格相当、つまり後項に対する「俗に言う目的語」として固定的に捉える錯誤の所産ではないか。これが小論の主張(というか仮説)である。つまり「汚名挽回」誤用論は、四字熟語の前項は「〜ヲ格」相当であるはずという「偏見」の所産であると考える。

後項の「動詞部」に対して、前項は対格相当である場合もあるし(名誉挽回)、奪格相当であってもいいし(疲労回復)、与格相当であってもいい(漁翁得利)、なんなら副詞句でもいい(高速移動)。

もんだいのケースでの四字熟語の語構成は、二項の単純並置 parataxe を本質としており、両項間に生じる統語的関係は任意に選びうる、場合によるのであって、いつでも「〜ヲ格」を想定することが誤りなのだ。

属格による語連結でもよくあること

あたかも属格で結んだ二語の間の関係を節に展開すると、対格関係/与格関係/奪格関係のいずれでも在り得るし、その他の格関係、あるいは同じことになるが連用修飾一般+動詞の関係になっていることも在り得るということ——これも同じ事情である。

Donum filii mei (cadeau de mon fils )

直訳:私の息子の贈り物 の解釈バリエーション
対格的関係:私の息子という贈り物
与格的関係:私の息子にやった贈り物
奪格的関係:私の息子からの贈り物

ラテン語の格変化を特権的なものとする意図ではない、たんにパラレリスムを指摘したまでと捉えていただきたい。

英語でも日本語でも同じである。my father’s murder「私の父の殺人」はいろいろに解釈できる。「父が犯した殺人」「私の父を(誰かが)殺したこと」「私が父を殺したこと」などなど。属格相当語句の単純並置のなかに様々な統語関係を「復元」できる。

これと同様、もんだいの四字熟語のケースでも、「復元」すべき統語関係は場合によりけりであって、対格関係に限ったことではない。ところが頻度・割合の多い対格関係を安易にそこに見て適用してしまうから「汚名<を>挽回するっておかしいだろ、汚名は雪ぐものだろ」などという浅薄な「誤用論」がまかり通ったのだ。

これに対する言語学的な答は「汚名挽回」の語構成は「前項ヲ後項スル」じゃねーから、前後項の関係はほかにもいろいろあっから、といったものだ。

というわけでここでの暫定的結論は「汚名挽回は誤用ではない」。

もちろん誤用と思っている者が多いなら、避けておくのはひとつの世間知、もっともこれは世過ぎの問題に過ぎない。

ただし……語の正用に物凄く厳しいキャラクターを表現するとなれば……俗情に叛してあえて突っ込んでみるという手もあるだろう。

わざと使ってみるのも一興

拙著『図書館の魔女』の登場人物の幾人かの台詞・独白からは「慣用読み」が排されていることにお気付きになった方も多いだろう。それら人物の台詞にあっては「漏洩」の読みは「ろうせつ」、「掉尾」の読みは「ちょうび」……といった具合になっている。あれ、へんなルビが振られているな、とお感じになった向きも多いのではないだろうか。

無論、慣用読みを誤りとする判断ではない。たんに異化というやつである。

この読み、ちょっと変なようだが訳が在りそう、この語法、ちょっと変なようだがそこが面白い、そう思ってもらえれば——所期の効果はあったということだが、さて皆様におかれてはいかがだったでしょうか。

なに、まだお読みでない。ならば丸善ジュンク堂(とくに名古屋栄店)へお急ぎあれ。名古屋は遠いとお思いの向きには honto がありますよ。(まさかのステマ!)

Published in: on 2014/05/02 at 16:46  コメントする  

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