宇宙の缶詰め

クリストの梱包芸術

1)「梱包芸術」というジャンルがある。第一人者としてはブルガリア出身のアーティスト、クリストとそのパートナー、ジャーヌ=クロードが有名だ。ともかく何でも梱包してしまうというのがコンセプトで、古くは1969年にオーストラリアで「海岸を梱包」して世間の度肝を抜いた。また1985年にはパリの「ポン・ヌフ」を梱包した。ベルリンのライヒスターク(帝国議会議事堂)を梱包したこともある。

小さなところではスヌーピーの小屋が梱包されたこともあった。

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(Peanuts 1978/11/20 ワシントンポスト他各紙;画像参照元は Peanuts オフィシャルサイト)

その輝かしい戦歴をグーグルのイメージ検索でどうぞ:

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梱包対象のインフレーション

基本的には、ともかくどでかいものを梱包することがライフワークの人で(そう言われると心外だそうだが傍目から見れば明らかに)、芸術批評界でも美術愛好家の間でも「これは芸術なのか」という議論を巻き起こして止まない。欲目で見ればこうして論議をかきたてるという一事をもって、それじたいを現代芸術とすべきなのかもしれない。作品ではなくて行為としての芸術、と言うか。場合によってインスタレーションが瓦解して死人が出たこともあり、何かと毀誉褒貶の喧しい人物である。

クリスト夫妻が私人として梱包を始めたのはいつからか知らないが(多分幼稚園ぐらいでパパ、ママにプレゼントをしたとかだろうか、十中八九ママはそのプレゼントを梱包込みで保存していたはずである)、芸術家としての梱包キャリアはよく知られたところでは、1958年頃から梱包した椅子、梱包したバイクなどを発表していた。その後、梱包対象が巨大化を始め、前述のように1970年前後から「海岸」やら「橋」やら「議事堂」やらを梱包することになるのである。こうなると前より小さいものを梱包しても仕方がないという気持ちになってくるもので、スポンサーが付く限り巨大なものを梱包したいという欲望が生じてくるのは無理からぬ成り行きだろう。梱包対象のインフレーションが起こっているのだ。思えば彼らの出世作たるドクメンタ4(カッセル、1968)でのインスタレーションは巨大な「インフレーション作品」であった。これも運命か。

さて、クリスト夫妻は次には何を梱包するのか。シドニーのオペラハウスあたりを狙っているらしいが(上にも見られるがデザイン画が発表されている)、業界では期待半分、嘲笑半分で次の梱包を待っているというところではないか。

梱包の極限

ところで梱包対象のインフレーションということになると、どれくらい大きなものまで相手に出来るだろうか。巨大建築物の次となると、まずは都市をまるごと梱包するとか、山をまるごと梱包するとか、そういった対象が思い浮かぶが、やってみたらすごいだろうがあまり面白くもないような気もする。個人的には「梱包されたモナリザ」なんていうアイディアにはにやりとしてしまうのだが(嘘吐けよ、っていう感じ)、ポン・ヌフを梱包されても凡人としては「アートって馬鹿ばかしいものだな」といった凡庸な感想を抱くばかりだ。山の次には、国を梱包するか、つぎは大陸か、果ては地球をまるごと梱包 (wrapping) しようか。アートというよりは温暖化問題みたいな超国家規模の環境対策みたいな話になってくる。

ところが、クリスト夫妻がいくら頑張っても、もはやこれ以上大きなものは梱包できまいというような「梱包の極限」といってもいい「梱包芸術」に挑んだ人物がいる。故赤瀬川原平氏である。偉人につき以下敬称略とさせていただく。

宇宙の缶詰め

もともと赤瀬川は世界の前衛芸術家の間で流行っていた梱包芸術をとりこんで、自ら扇風機とかラジオとかいった日用品を梱包していた。だが彼の内省はすでに「何を包んでいったらより面白いか」という命題を一足飛びに超えていた。クリストのように、さらに大きいもの、さらに権威のあるものを梱包しよう、というのではない。それは言わば、既定の路線の延長に過ぎない。すでにあるアイディアの「継続」に過ぎない。おそらく赤瀬川にはこう思えたのだろう、それはあまり芸術的ではないな。少なくとも、あまりアヴァン・ギャルドではないな。

そういえば前掲のシュルツの漫画に応えて、クリスト夫妻は「梱包したスヌーピーの犬小屋」を実作してシュルツ・ミュージアムに寄贈したそうだが、洒落としては上掲のコミック・ストリップにすでに一籌を輸するように思える。

話戻って、すでに「前衛そのもの」に退嬰的なものを見はじめていた赤瀬川は、端に「全てを梱包してしまおう」という奇想に訴えたのだ。

問題の作品は1964年1月26日~27日のグループ展「シェルタープラン」(帝国ホテル)に出品されたもので、それは「宇宙の缶詰」と題された。

一つの小さな缶詰である。

「製法」は単純だ。1)まず蟹缶を用意する。2)丁寧にレッテルを剥がしておく。当時は缶に直接印刷はされていなかった。紙を巻いてあったのだ。3)中身はいただいておく。4)空になった缶を洗浄し、内法(うちのり)面にレッテルを内側向けに貼り付ける。ここが肝心で、この作業によって普通は内側であると考えられる缶の容積部分を、レッテルの存在によって「外側と見做す」という、思考の反転が為されている。5)ハンダで缶を元通り密閉する。缶詰密封キットなどを用いればさらに漏れがない。

その瞬間! この宇宙は蟹缶になってしまう。この私たちのいる宇宙が全部その缶詰の内側になるのです。『東京ミキサー計画』

この缶詰めの「通常は内側と考えられている空間」はレッテルの向きにしたがって、今や「外側」であるということになった訳である。したがって「通常は外側と考えられている空間」、すなわちこの世界のほぼ全てが定義上は缶詰の内側である、ということになる。世界の全て、宇宙の全てが、この蟹缶の「内側」にあるという逆転が生じる。

後に赤瀬川は、なぜこれが蟹缶でなければいけなかったのかという点に関し、曲がりなりにも宇宙そのものを内包する以上は缶詰がそこそこ「高価」なものでなければ申し訳が立たない、故に蟹缶だった、という発想、この俗情について自嘲の弁を陳べている。

しかし思えば、クリスト夫妻が海岸を梱包する五年前には、すでに宇宙そのものが問題の蟹缶の中にすっぽりと収まっていたのであった。

クリストが何を梱包しようと、それも全て「蟹缶の中」でのことだったのである。

ちなみに上記のグループ展で「宇宙の缶詰」とともに出展された一品も気が利いている。「缶切りの缶詰」である。

もう一個あったらどうなるか

2)さて、上の「宇宙の缶詰」であるが、あまりに製法が缶便なので、じゃなかった簡便なので、自分でもう一つぐらい「宇宙の缶詰」を拵えるのも容易である。ここは元祖の顰みに倣って、蟹缶を用いるとしよう。これはキャビアのセブルーガでは成立しない(たぶん缶詰の単価では最高額だろうが)、蟹缶は絶妙なバランスなのだ。

ともかく、元祖「宇宙の缶詰」(宇宙缶A)の隣に同じもの(宇宙缶B)をもう一つ造ったとする。造った順序を問わずここでは単に存在する宇宙缶をいずれも共時的に扱うものとする。宇宙缶Aよりも以前に世界が存在していた以上は(にも拘わらず世界が宇宙缶Aの中に収められた以上は)、宇宙缶および世界の包含関係は製造時系列には従わない。

するとまずは、宇宙缶Bは宇宙缶Aの「内部」にあることになる。宇宙缶Aは宇宙缶Bを内包している。A∋B

しかし同時に、宇宙缶Aは宇宙缶Bの内部にある、と言うことも出来る。宇宙缶Aを含めて、世界はすべて宇宙缶Bの「内部」にあるのだから。B∋A

はたして宇宙缶Aと宇宙缶Bの包含関係はどうなっているのか。

ほんとうに全てを収めている宇宙缶はどちらなのだろうか。

さらにもう一個あったらどうなるか

3)ここで宇宙缶Cを同時に俎上にのぼせてみる。

宇宙缶Aと宇宙缶Bは宇宙缶Cの「内部」に等しい資格で収められているのだろうか。C∋A, B いや、それは許されまい。ひとたび宇宙缶が存在すれば即、世界がその宇宙缶の内部に収められている、という定義上、AとBの間にも包含関係が成立しているはずである。この世界には独立併存する宇宙缶は存在しない。どちらかがどちらかの内側にある。

であれば宇宙缶Cには、「宇宙缶Aを内包した宇宙缶Bが収められている(C∋BかつB∋A)」のか、反対に、「宇宙缶Bを内包した宇宙缶Aが収められている(C∋AかつA∋B)」のか。

つまり入れ箍構造としてC>B>Aなのか、C>A>Bなのか。

以上ここまで、3)の項においては、まだCが、AなりBなりを包含しているという前提で話を進めているが、こうしたC中心主義の他にA中心主義やB中心主義を蒸し返すことが出来る。2)の項にみたような逆転関係は、「AとB」のCに対する関係についても考えられる。すなわち、いまや三つの宇宙缶A, B, C の関係は、問題の性質上、包含関係に含まれず独立することがどれにも許されないとすると:

A∋BかつB∋C
A∋CかつC∋B
B∋AかつA∋C
B∋CかつC∋A
C∋AかつA∋B
C∋BかつB∋A

という6通りの合理的な「全宇宙の入れ箍解釈」を併存させているということになる。

さらにもう一個

4)ところでここに宇宙缶Dがある……

A∋BかつB∋CかつC∋D
A∋BかつB∋DかつD∋C
A∋CかつC∋BかつB∋D
A∋CかつC∋DかつD∋B
A∋DかつD∋BかつB∋C
A∋DかつD∋CかつC∋B
B∋AかつA∋CかつC∋D
B∋AかつA∋DかつD∋C
B∋CかつC∋AかつA∋D
B∋CかつC∋DかつD∋A
B∋DかつD∋AかつA∋C
B∋DかつD∋CかつC∋A
C∋AかつA∋BかつB∋D
C∋AかつA∋DかつD∋B
C∋BかつB∋AかつA∋D
C∋BかつB∋DかつD∋A
C∋DかつD∋AかつA∋B
C∋DかつD∋BかつB∋A
D∋AかつA∋BかつB∋C
D∋AかつA∋CかつC∋B
D∋BかつB∋AかつA∋C
D∋BかつB∋CかつC∋A
D∋CかつC∋AかつA∋B
D∋CかつC∋BかつB∋A

以上、24通りの合理的な「全宇宙の入れ箍解釈」を併存させているということになる。

5)さてここに宇宙缶Eがある……

A∋BかつB∋CかつC∋DかつD∋E
A∋BかつB∋CかつC∋EかつE∋D
A∋BかつB∋DかつD∋CかつC∋E
A∋BかつB∋DかつD∋EかつE∋C
A∋BかつB∋EかつE∋CかつC∋D
A∋BかつB∋EかつE∋DかつD∋C
A∋CかつC∋BかつB∋DかつD∋E
A∋CかつC∋BかつB∋EかつE∋D
A∋CかつC∋DかつD∋BかつB∋E
A∋CかつC∋DかつD∋EかつE∋B
A∋CかつC∋EかつE∋BかつB∋D
A∋CかつC∋EかつE∋DかつD∋B
A∋DかつD∋BかつB∋CかつC∋E
A∋DかつD∋BかつB∋EかつE∋C
A∋DかつD∋CかつC∋BかつB∋E
A∋DかつD∋CかつC∋EかつE∋B
A∋DかつD∋EかつE∋BかつB∋C
A∋DかつD∋EかつE∋CかつC∋B
A∋EかつE∋BかつB∋CかつC∋D
A∋EかつE∋BかつB∋DかつD∋C
A∋EかつE∋CかつC∋BかつB∋D
A∋EかつE∋CかつC∋DかつD∋B
A∋EかつE∋DかつD∋BかつB∋C
A∋EかつE∋DかつD∋CかつC∋B

以上、宇宙缶Aが他の全てを包含するという部分だけで「全世界入れ箍構造」の可能な解釈が24通りある。つまりここでは全体の五分の一しか列挙していない。宇宙缶B以降のそれぞれが他の全てを包含する可能性を数え合わせれば120通りになる。

6)さてここに宇宙缶Fがある。すると問題の可能性は720通り。

宇宙缶Gまであれば5040通り。Hまであれば40320通り。Iまでで362880通り。Jまであれば宇宙缶十個で3628800通り。

7)なんのことはない、n 個の蟹缶の順列組み合わせで nPn の「世界の包含関係についての解釈の別」が生じる訳である。蟹缶の数 n に従って、この順列組み合わせの数列の初項は1、一般項 {an} は n! である。

世界解釈のインフレーション

0!=1
1!=1
2!=2
3!=6
4!=24
5!=120
6!=720
7!=5040
8!= 40320
9!=362880
10!=3628800

世界缶が20個あった段階で、包含関係の解釈は240京を超える。100個あれば……グーグルに訊いたら 9.332622e+157 だそうだ。もう計算機でも計算はやめて桁数を言ってくれるだけになった。

【追記】Mac OSX の関数電卓に聞いたら、9,332621544394415e157 だそうだ。9桁ほど増えたが、もはや有り難いかどうかもわからない。

capture-decran-2016-11-12-a-02-53-46

オンライン数列事典 : s.v. A000142

こうして縦軸に対数をとると、なんだか穏当な一次関数みたいに見えるがもちろん気のせいである。縦軸の数値を見れば分かる通り気が触れたような増加ぶりなのだが、これでも巨大数の界隈で取り沙汰される増加関数に比べればまだまだ正気の沙汰とすべきか。もっともアッカーマン関数あたりになると「何を数えるための関数なのか」すら判らなくなってくる。

ここではあくまで有限個(どころかたかだか100個)の世界缶のもたらす「世界の包含関係」の複雑化が問題なのであるが、これは実感の範囲に収まっているという気はする。

空積

さてこうして見てくると、n 個の世界缶をめぐる包含関係についての世界解釈は階乗、すなわち1 から n までのすべての整数の積であるということになる。階乗であれば……空積が定義される。すなわち 0! = 1 と定義されるわけである。積というものを一般的に定義しようとするとこういうことになる。

つまり積といえば、日常的には「掛け算の答」であるわけで、俗情としては少なくとも「二数」を掛け算したいところだ。だがこの演算を抽象的かつ一般的に定義すれば、一数の積もあれば(通常はその数自身)、零数の積もなければならない(規約により1とされる)。

これは数学の面白くなってくるところで、卑近な例では、ある数の一乗はその数自身だが、その数の零乗は1であるという事実……というか規約に端的に現れている。

するとですね。問題の宇宙缶は、宇宙缶の包含関係をめぐる世界解釈の数を「存在する前から」持っているということになりませんか。

つまり宇宙缶の数が零個であっても、その時、宇宙缶の包含関係をめぐる世界解釈はすでに、階乗の空積の規約にのっとって一つ存在することになるのだから。0! = 1 なのだから。

宇宙缶の存在以前の世界

赤瀬川の創案「宇宙の缶詰」の射程は、想定されるよりも広く、深いのであった。

宇宙缶を作り出すことによって、赤瀬川は「宇宙の全て」を缶詰に収めてしまったばかりではない。宇宙缶の生み出される以前の世界をも宇宙缶に閉じこめてしまっている。なぜなら、宇宙缶の存在個数をめぐる、世界がどの宇宙缶に、どういう順番、どういう入れ箍構造で収められているかという解釈については、完全に順列組み合わせの階乗構造に従っているのであり、それであるなら宇宙缶の存在個数が零個であった時にさえ、すでにかかる世界の入れ箍構造についての解釈が一つ存在していることになるのだから。それは宇宙缶が「一つ存在する」時と同じ数なのである。

すなわち、「宇宙の缶詰」が生み出される以前から、世界は「宇宙の缶詰の内側にあった」のである。

Published in: on 2016/11/12 at 07:08  コメントする  

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