レトロニム……古いものに後から新しい名を与える

人力車

「くるま」というのはもと人力車のことだった。たとえば落語で「吉原までくるまで」と言えばタクシーに乗っていったという話ではなく、人力車をチャーターしたということだ。「くるまといえば人力車」の長い時代を経て、その後 Automobile が上陸した時には「くるま」と区別して特に「自動車」という語を用いた。これがざっくり百年ほど前のことに過ぎない。

ところがこの Automobile はあっと言う間に物流の、とりわけ人間の輸送の主役におどりだし「くるま」の一語を人力車から奪ってしまう。「くるまといえば自動車」の時代になってしまったのだ。

さて困ったのは古い「くるま」の方だ。こちらを新しい「くるま」から区別しなければならない……そして拵えられた新しい用語が「人力車」だったのである。

この経緯からお分かりのように「人力車」は常用される語彙としては「くるま」よりも、それどころか「自動車」よりも若いのである。指示対象としては一番古いものに、語彙としてはヨリ新しいものが充てられている。

こうした「古いもの」に改めて付せられた「新しい名前」のことをレトロニム retronyme と言う。「遡行命名」とでも訳そうか。

アコギ

たとえば「アコギ」である。阿漕ではない、アクスティク・ギターのこと。もと語学の教師であるからここは格好をつけたが普通は仮名なら「アコースティック・ギター」とつづるところだろう。「アコースティック」は和製英語といったところ、既に定着してしまって逆らいようもない。

ギターといえばもともとこちらが元祖であるのにエレキギターとの区別のため、言うまでもない「アコースティク」という形容が付いた。アクスティックの原義「音の、音響の」からすればアクスティクでないギターなど存在しないところなのだが、言わずもがなのこの形容。無論これは実情「エレキでない」という意味の形容詞として使われているのであって unplugged と同義である。さらに縮まって「アコギ」が成立する。

余談であるが、もう一つ気になっていることとしては、アコギを呼ぶ時は「ギター」は頭高型アクセントで「カレイ(魚)」のように発音されがちなのに対して、エレキを指す場合には「ギター」が平板型アクセントに代わって「カレー(料理)」のように発音されがちなことである。

若者言葉でアクセントの平板化がおこる(親父の言う頭高「彼氏」→女子高生の言う平板「カレシ」)のは他にもよく観察されることである。なるほどエレキギターの方が若年層と親和性が高そうだ。……もっとも「エレキは若者の音楽につかうもの」なんていう観念はいつのものだろう? キース・リチャーズは70歳だ。エレキが若者のものなら70歳は若者である。BB・キングは88歳である。∴88歳は若者である。これが証明されるべきことであった。

屁理屈はともかく、この平板型「ギター」に見られる「若者語のアクセント平板化」は幾世代にもわたってスライドして行われているように見えるのだ。つまり「若いんだから平板化しなくちゃ」、「もう歳だから頭高でいくか」とでもいうように年齢の別によってアクセントを使い分ける伝統が受け継がれている節がないだろうか? ないか。いや、ちょっとありそうなんだけど。

閑話休題、レトロニムの例

割に最近のもの

メルクマールは Windows 95 の普及と WWW の一般化であろう、二十一世紀初頭は IT 技術の世界拡大が目覚ましく、いきおい膨大な新語や新概念が産まれた。それに平行して「新しく進出してきたもの」が旧来の用語の地位を脅かすことが頻繁に起こり、数々のレトロニムが産出された。IT 技術のインフレーションの時代は同時にレトロニムのインフレーションの時代でもあったのだ。

  •   固定電話 いわずとしれたこと、今日では「電話」はむしろ携帯するのが常態である。したがって旧来の「携帯しない電話」の方に特別な命名が必要となった。より世俗的には「家電(いえでん)」などという言い方もあるが使用域が限られそうだ。興味深いのは携帯電話が「電話」という言葉そのものを奪ってしまった訳ではないという点である。つまり「ケータイ」のことを「電話」と呼ぶ人は少ないだろう。フランス語でも「ケータイ」のことは (un) portable と呼んでおり、日本語の「携帯」と平仄を等しくする。つまり本来の形容部分が独立して「名詞化」した。一方であらたに特記されることとなった固定電話も téléphone fixe で、まったく同じ発想。というよりこれは訳語の一般化か。
  • オフライン オンラインで人に「会っ」たり、話したりすることが頻繁になると、現実世界でそうすることに特別の形容が必要になる。かつては「オフ」といえばオフシーズン、あるいは休暇中の意味で使われたものだが、今日では「ネット上ではない」という意味の方が支配的だろう。技術用語として、物理的、システム的に外部ネットワークから切り離されていることについては、むしろ「スタンドアローン」という言葉が用いられる傾向がある。かつてコンピュータは「通常」スタンドアローンであったが、いまやスタンドアローンで運用されているものの方が少ない。
  • フィルムカメラ 銀塩カメラと呼ぶ人もいる。デジカメの方が普通になれば、従来型のフィルム・印画紙に画像を「焼き付ける」タイプのカメラにはそれ専用の呼び方が必要になる。

二十世紀にすでに普通だったもの

  • レギュラーコーヒー インスタントコーヒーの普及に伴い、豆から抽出するコーヒーのことを「レギュラー」と称するようになった。
  • SOHC これはちょっとマニア向けの単語かもしれないが Single OverHead Cam (-shaft) の略で、内燃機関のうち、吸気・排気弁の開閉を制御するカムシャフトが燃焼室の上に「一本」あるもののこと。エンジンの高出力・高回転化に伴って、吸気排気弁を二対半球状に配置する都合上、カムシャフトが「二本」あるタイプのエンジンが後に一般化した。DOHC (Double OverHead Cam) が高出力エンジンには普通のこととなったのである。これに対してカムが一本のものを特記するために、シングル・オーバーヘッド・カム、すなわち SOHC という名称が遡行的に作られた。DOHC はとくに複数シリンダーが「直列」したものに向いているので、底回転型の単気筒エンジンや V ツイン・エンジンなどではいまだに SOHC 型エンジンは現役である。たとえばホンダのスーパーカブやヤマハの SR などは SOHC。
  • 布おむつ 解説の用もないかもしれないが「紙おむつ」の普及により、従来型のおむつは「布」との特記を必要とするようになった。
  • 天然芝 人工芝のグラウンドと区別して「天然芝」と特筆する。競技の特性との相性があるからだろう、人工芝の野球場に対して天然芝のサッカー場という区別がありそう。

伝統的なもの

なかには「それはレトロニムだったのか」と意外に思われるものもある。なんらかのイノベーションが生じたあとで、あらためて旧来のものに「特別な名前」を献上するというケースは、実は古くからあったものなのだ。「言われてみれば、これもレトロニム」といった感じのする、すでに定着度の高いものをリストから拾い上げてみる。

  • 真綿 「日本(日本語)においては、室町時代に木綿の生産が始まる以前は、綿(わた)という単語は即ち真綿の事を指していた。」(ウィキペディア:真綿)。この絹の原料たる「繭から取れる綿」が木綿によって「綿」の名前を奪われたのである。
  • 地上戦 史上に永らく、戦争は海戦か陸戦かといった区別で足りていた。そして陸戦といえば通常は「地上」でなされるものだった。それが航空機の戦力投入により制空権という概念が生じたのが、ほぼ第一次大戦以降である。これに合わせて従来のような「地上で行われる戦闘行動」に特別な名称が必要となった。
  • パイプオルガン オルガン(オルガーヌム)はもともとが大規模なもので、教会建築と融合した「設備」であった。時には数段にわたる鍵盤と、音色を切り替える大量のスイッチボックスの背後に、ちょっとした家屋よりも大きいパイプ群と鞴(ふいご)室を擁した巨大なパイプオルガンは、鍵盤楽器であると同時に管楽器でもある「オルガン」一般の原初の形である。
    しかし小さな足踏み式鞴と、リードを用いた小規模機構によっておおむね類似した機能を達成した「足踏み式リードオルガン」、あるいは街頭に持ち運びされる「手回しオルガン」が「オルガン」の名前をほぼ奪ってしまった。
    リードオルガンは幼稚園や小学校の教室にも見られる、日本の音楽教育でも一般的なもので、我々が「オルガン」といって最初に連想するのはまずこちらの方だろう。ほとんど建築物とも言うべきパイプオルガンに対して、リードオルガンはアップライト・ピアノよりも小さな框体で足りる。前者はカテドラルでもなければ収まらない規模であるのに対し、後者はなんなら持ち運びも出来るようなサイズ、これでは楽器としての普及度に差が付いたのも故無しとしない。だが一つの楽器に付けられた「オルガーヌム(機構)」といった大仰な名前は本来はパイプオルガンのものだった。
    なお「手回しオルガン(手風琴)」については、日本ではむしろ「オルゴール」という呼び方も広まったが、これはオランダ語(Orgel)由来であることを見るに江戸時代の輸入品から定着した語彙ということだろう。しかし「オルゴール」の一語は日本においては鉄の櫛の歯を弾くゼンマイ仕掛けの玩具「オルゴール」にほぼ奪われたかたちになり、大道芸やサーカスの伴奏によく用いられるクランク付きの楽器は説明的な「手回しオルガン」という名で区別された。
Published in: on 2015/03/07 at 15:07  コメントする  

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