回文の世界(2)
Le monde du Palindrome (suite)
★中国語
中国語は冠詞や前置詞,後置詞のような機能語(文法的機能担当の語)を割に要しない言語なので,回文は作りやすい。シンプルな例を挙げるが本気になればすごいものが幾らでも作れるだろう。最初の例は中国語の初等教本によく出てくるそうだ:
- 我愛媽媽,媽媽愛我「私は母が好き,母も私が好き」
- 人過大佛寺,寺佛大過人「ある人が大仏殿のところを通ると,寺の大仏は人よりもはるかに大きかった」
- 船上女子叫子女上船「船上の女性が子供に乗船するよう叫んだ」
★英語
英語の傑作として夙に知られるものは前回に触れた。ここでは変わり種を幾つか拾う。
- tattarrattat「(ノックの音)」
オックスフォード英語辞典に載る最も長い回文英単語で,出典はジョイスの『ユリシーズ』だそうだ。もっともジョイスが使っている,とかラブレーが使っているとか言われても,感心してはいけない。どちらも言語に無理を言って道理を引っ込めさせる「悪・文学者」だ。同じ理由でウリポ(フランスの文学的実験ばかりやっているロクデナシ集団)が出典である場合も胡散臭さ満点だ。ウリポの主犯格はクノーとペレック。言葉遊びのネタで出典がウリポ関係者だったら「やつらならやりかねん」と流しておくのがいいだろう。「そんなことばっかり考えている」ひとたちだから。
- detartrated「酒石酸を取り除いた」
化学の用語だそうだが,これがまともな単語ではいちばん長い一単語回文。酒石酸というのはパンをしっとりモチモチに作るための乳化剤に使う,わりにポピュラーな物質で,上の単語はそんなに無茶苦茶に専門的な単語とは言えまい。これはパン屋のジャン・デリニョン氏(この人,前にもご登場願ったな)に聞いた。
- Never odd or even.「奇数でも偶数でもない」
ルーレットで 0 や 00 が出たときのことかしら。
- A man, a plan, a canal : Panama.「一人の男,一つの計画,一つの運河:パナマ」
映画の惹句みたい。二つの海を結び合わせるのに生涯をかけた男の物語……とかいう感じですね。これで一本書けるのではないか。
英語の回文で無茶苦茶長いものは http://www.palindromelist.com/longest.htm にある。中身は馬鹿馬鹿しくって長いだけが取り柄。こんなのは駄目だ。コンピュータでもっと長いのを作っている人もいるが,単語の羅列で最低。
★オランダ語
オランダ語は回文が多いようだが、私が意味をチェックできないので簡単なものだけ:
- Maandnaam「月の名前」
- Koortsmeetsysteemstrook「ある体系に従って熱を計る紙片」
上は一単語では最長のオランダ語回文(Guinness 認定)だそう。
- Baas, neem een racecar neem een Saab「ボス,レースカーを使いましょう,サーブにしましょう」
サーブでいいのか。
★ドイツ語
オランダ語もそうだがドイツ語でも単語をぺたぺたくっつけて複合語を作る。そこでこうしたゲルマン系の言語の回文はために作った野暮なものが多いのだが,これはドイツ語の傑作だ:
- Ein Neger mit Gazelle zagt im Regen nie「ガゼルをつれた黒人は雨の中では決して何も言わない」
ドイツ語は語順は比較的自由だが,男女に中性名詞まであってそれに応じた冠詞が必要(上では男性単数不定冠詞 ein が見えている)だ。しかも格変化があって英文法の用語で言うと主格,目的格,所有格ほか,名詞や冠詞類や形容詞の語尾がくるくる変わる。つまり文法的な形の拘束が強く、自由度が低い。したがって回文を作るのは難しい言語であるということになるだろう。それに鑑みるに上の回文の完成度は推して知るべし。
- Bei Leid lieh stets Heil die Lieb.「悲しいときにも愛によって慰められる」
これはうまいですね。
★フィンランド語
フィンランド語はインド・ヨーロッパ語に属さず(フィン・ウゴル語系),さすがに独特な配語が面白い。母音調和(母音の音色の配列に一定の法則がある)があるために回文はずいぶん作りやすいようで膨大な例がある:
- Saippuakauppias「石鹸売り」
これがおそらくフィンランド語でいちばん有名な一単語回文。
- Saippuakuppinippukauppias「石鹸の入れ物のバッチ売り」
上のもののバリエーション。ややエレガンスを欠いている。やはり長ければよいというものではない。「石鹸」と「〜売り」の間に回文になるものを挟むだけで幾らでも長くなるという悪い例。
- Solutomaattimittaamotulos「トマト計量研究所のだした結果」
これには笑った。どんな「結果」なんだか。「トマト計量研究所」ってのがおかしい。そんな研究所に勤めてみたい。
- Alle sata satsia maista satasella 「百ユーロで百セット買ってきて食べてみよう」
今はフィンランドもマルカではなくユーロ。もっともユーロという語は入っていない。ところで百セット買うのはいいけど何を食べるのだろう。やっぱりトマト?
★イタリア語
イタリア語は母音の響きがシンプルなのでこうした悪戯には向いているようだ:
- Autore, ero tua「作者様,私はあなたのものです」
熱烈なるファンか。イタリアだけに情熱的だ。ちょっと反応が類型的になってますが。
- Otto, l’ateo poeta, lott「無神論者の詩人,オットーは戦った」
しかし,オットーって。なんでドイツ人を連れてくるのか。
- É Dio, lo gnomo mongoloide?「それって神様? モンゴル系の土の精?」
何を聞いてんだか。
- I topi non avevano nipoti「そのネズミには孫はいない」
ちょっと口語はいってますが,ドイツ人,モンゴル系,と来て今度はネズミ。鼠算で増えるといいますし,孫の心配は無用だ。
下は Roberto Morassi 作の回文によるオード。やるなあ:
Ode a Roma Dorata
O citta’ nuova, ti balen’Amore,
l’arte t’annoda. Ci nuota, la sera,
Morte ideale. Vidi matto, ratto,
serrarti, Diva, i nitidi livelli
ma i lati d’Eva, no ! Nave d’Italia
mille vili ditini avidi trarre
sott’a’rottami di vela, e dietro
mare salato, unica donna: te!
Tra le romane l’abitavo, un attico….A. Taro (d’amor aedo)
★フランス語
フランス語はすでに触れた通り,中世にはラブレーがいるし,現代にはウリポがいるし,こいつらだけで大概のことはやってしまっている。ここでは文学的な凝った物より、むしろポピュラーなかわいらしい例を幾つか上げておこう。言語特性からすると,冠詞があって性がある,動詞や形容詞に複雑な一致規則がある,しかも動詞の活用は複雑,ということでフランス語は決して回文が作りやすい言語ではない。なのに傑作の例は多い。つくづく言葉のマニアの多い国だと思う。クノーもペレックも伊達や酔狂でこの国に生まれたわけではないのだろう。:
- la mariée ira mal 「結婚した女性は体調をくずすだろう」
- Eh, ça va la vache?「やあ,気分はどうかね雌牛くん」
- Esope reste ici et se repose 「イソップはここに落ち着き休憩する」[墓碑銘にうってつけ。Rest here in peace]
- Et la marine va, papa, venir Malte 「で,海軍はね,パパ,マルタ島にもうすぐ着くよ」
- Engage le jeu, que je le gagne ! 「さあ試合を始めよう,僕が勝ちますように!」
フランス語の回文として最長のものは,件のジョルジュ・ペレックの手になるもの。Wikipedia にも取り上げられているがこれは明日にでも全文再録してお目にかける。なんでそんなことをするかというと,Wikipedia の引用は不正確なのだ。ああ待たるるかな,以下次号。
★ギリシア語
- Νίψον ανομήματα μη μόναν όψιν「顔ばかりではなく罪も洗い清めよ」
「禊(みそぎ)の泉」に掲げられた碑文だそう。完璧な出来。これは碑文だっていうのがポイントだ。つまり墓碑とか碑文とか,あるいは新聞の見出しとか看板の標語だとか,簡潔を旨とすべきフォーマットならではの文体なのだ。たとえば冠詞の省略とか(ギリシア語は本来は冠詞がある)。以下,早稲田大学文学部のコミュニケーション・サイト(今は過去ログのみ)から宮城徳也先生の分析を再録。
ニプソン・アノメーマタ・メー・モナン・オプシン /ニプソン:動詞「洗う」ニゾーのアオリスト・命令法・2人称・単数 /アノメーマタ:動詞「不法を犯す」アオノメオーから作った、第3変化・中性名詞アノメーマ「不法、罪」の複数・対格 /メー:否定語 /モナン:形容詞モノス「〜だけ」の女性・単数・対格。アッティカ方言ならモネーンだからドーリス方言だろうか。/オプシン:第3変化・女性名詞オプシス「様子、姿、顔、視力、光景」の単数・対格
★ラテン語
ラテン語は傑作が多い:
- Roma tibi subito motibus ibit amor. (Quintilian) 「ローマよ,愛は突然にお前の元にゆくだろう」
上と同じく、宮城徳也先生の分析によるとこれはエレゲイア(哀歌)の韻律になっている。一般には冒頭を「ローマでは」と解釈する翻訳が(英語でもフランス語でも!)出回っているのだが,それでは韻律に合わない。クインティリアーヌスと出典まで見えているので調べておこう。
- Si bene te tua laus taxat, sua laute tenebis. (Plinius)「もし汝の称賛が汝をきちんと評価するなら,彼の称賛に含まれることになろう」
自分をきちんと評価すれば,人の評価の対象になる,と読めるがおそらくこれで正解だろう。tenebis は奪格を取って「〜に属する」という意味になる。割に簡単な文なのに,ネット上では翻訳のついているものがほとんどなかった。出典はプリニウスということでこれも調べておこう。
- Subi dura a rudibus. 「横暴なるもののなす苦難に耐えよ」
護教作家の言いそうな文だが。
- Signa te, signa, temere me tangis et angis.「十字を切れ,汝,十字を切れ,我に触れることも我を苦しめることもまず出来まい」
- Si se mente reget non tegeret Nemesis.「もし精神によって己を制するならば,復讐の女神(ネメシス)は隠さないだろう」
条件節が未来形,主節が接続法未完了で時制複合がやや変か。ネメシスが対格(目的語)ならもっと解りやすいのだが。
- Et tiger non regit te. 「しかしてトラは汝を支配しない」
どんな状況なんだか。
- Sum summus mus.「私は最高のネズミである」
トラに支配されないのも道理だ。こっちは「至高のネズミ」だったのだ。
- In girum imus nocte et consumimur igni「我々は夜に輪を描いて飛び,火に焼かれる」
これは蛾のことだろう。よくできてる
傑作中の傑作をお目にかけて掉尾を飾る。等幅フォントでご賞味いただきたい:
SATOR
AREPO
TENET
OPERA
ROTAS
横に呼んでも Sator Arepo tenet opera rotas,縦に読んでも Sator Arepo tenet opera rotas。加えて、もちろんそれぞれ逆からも読める、ご確認いただきたい。横に呼んでも回文で、縦に呼んでも回文なのだ。縦横、都合四方向から読める回文なんて前代未聞にして空前絶後だろう。意味は「農夫アレポは苦労して車輪を引く」。ネット上ではこれには二重の意味があるとして解釈を挙げていたが,文法的に不可能な読みだったのでここでは無視しておく。フランス語の記事(ソース失念。wikipédia だったか)ではこの章句には cryptogramme(隠し言葉)があるとして Pater noster「我らが父」という語が忍ばせてあるという。それは凄い話だが,どこをどう読むとそういうことになるのか。それは考えすぎではないか。