ある「落ちこぼれ」の弁解

かつて英文学者の安藤文人(ふみと)先生の随筆に膝を打ったことがある。「ある『落ちこぼれ』の弁解」と題するエッセイで、ご自分が数学が苦手であったことを自虐的、諧謔的に回想した一文であった。敬称に先生としたのは実際にお世話になったことがあるから。以下は簡便のため「氏」とさせていただく。

 今でも数学は勿論わからないし、時折夢の中で悩まされる以外は数学のことを思い出しもしないが、近頃になってようやくわたしに欠けていた能力が実際は何であったのかがわかってきたような気がする。簡単に言えば、わたしの頭はまったく偏頗にできていて、言葉、あるいは記号に対しては常に単一の反応しかできないのだ。例えば、次のような「文章題」が試験に出されたとしよう。

「弟が二キロ離れた駅に向って家を出てから、十五分たって兄が自転車で同じ道を追いかけた。弟の歩く速さは毎分七十メートル、兄の自転車の速さは毎分二百二十メートルであるとすると、兄は出発後何分で弟に追いつくか」

これを読んだとき、わたしの頭にまず浮ぶのは、「弟は何を忘れたのか」という疑問である。弁当だろうか、それとも体操服だろうか。さらにわたしはのんびりと駅に歩いていく弟の姿と、その後を追って必死に自転車をこぐ兄の姿を想像する。それが冬ならば、兄の吐く白い息や、寒さにも関わらずその首筋に次第に浮ぶ汗の玉までが目に浮ぶ。そして自ら作り上げたその光景に感動すら覚えかねないのである。

これを読んだのは今はなき早大文学部のコミュニケーション・サイトの一企画であった。デッドリンク。早大のウェブサイトのリニューアルに伴い、どこかに移ってしまったらしい。今は無いものを何故上のごとく正確に引用できるかというと、心当たりに文面を検索してみたら、まさしくこの一文に行き当たった。あろうことか 2002年ごろ 2ch のあるスレッドにペイストされ、論(あげつら)われていたのだ。いわく早稲田の教授は「中学数学もできない」「ヴァカ」であり、まさに「ヴァカ田」であると。わざわざスレッドまで立ち上げて厳しい舌鋒で扱き下ろしにかかる「>1」氏が、早稲田大学に対してどうしてこれほどまでも恨みつらみを募らせているのかは判らない。安藤「文人」氏の諧謔に満ちた小文の趣旨は、要するに「自分は徹頭徹尾『文学的』な人間なのだ」という、文学者としての自嘲とも自負ともとれる告白なのであるが、上の如き韜晦を目にして本当に「早稲田の教授は中学数学もできない」というメッセージを受け取るのみというのは、かなり論難氏の読解力に不足を感じる。

もう一点指摘しておけば、もし仮に上のような問題を前に立ちすくんでいたのだとするならば、安藤氏は中学数学に躓いたのではなくて、おそらく小学算数にすでに躓いている。安藤氏の使った「数学」という言葉に引きずられたのだろうが「>1」氏は手ぬるい。どう見てもこれは「算数」だ。小学校の問題である。事柄に則して言うなら「小学校の算数もできない」と難じるべきところである。

文系と理系

ことは「文系と理系」の区別の話に見える。だがこれは公平に言って疑似問題というべきだろう。ことの序でに啖呵を切っておくなら「文系・理系」と言挙げして、ことさらに区別するのはどちらかというなら「文系」的な仕草ではないかとも思う。

私はといえば、学部で仏文、修士でフランス現代思想とドイツ観念論、博士で言語学、留学先で西欧古典のハードコアと、どう考えても「ド文系」としか言えないフォルマシオンを経てきた人間であるが、自分のことをどちらかというならば理系マインドの持ち主であると自任して恥じない。しかし……

思ってみれば「文系・理系の区別」になんらかの実態はあるのだろうか? あるとすれば、それは畢竟なんのための区別なのか。

「文系・理系の区別」は、たんに学制の問題ばかりではなく属人的な評価として使われる場合には、「理系の人」側が「とくに必要なところで定量的なものの考え方をしてくれない相手」を論難する場合にしばしば持ち出される。情緒の文系・理性の理系とでもいった俗な分別が瀰漫しているのである。しかしこうした二文法こそ情緒的なものに他ならないのであって、話の判らない相手を「文系」と決めつけるのは理系の自負に対してはなはだ自己同一性を欠く振る舞いである。己の「理系性」を誇ろうというなら、問題を「理系度・文系度」の多寡という形で定量化しておいてもらいたいものだ。

そもそも、相手がこちらの話を判ってくれないのは、こちらが分明であると思っていることを相手が認めていない、あるいは気にしていない(大事なポイントであると思っていない)からであって、要するに相手の関心はどこか他のところにあるのが一般である。この場合、相手の無理解をこの文脈における「文系性」に求めるとしたら、これは筋違いなことであり、それこそ自分の「文系性」を恥じるべきである。ここでいう「文系性」とはようするに「馬鹿」ということであって、それは自分に跳ね返ってきているのである。

しかしここで手のひらを返すようなことを言えば、一方で「文系・理系の区別」が、事実上の「理系の優位」とともに確認される事実はある。とくにセンター試験などの、ある程度公平な条件の元でみると、理系学部を選択した受験生の科目ごと平均点は、英語や国語のような文系科目においてすらも、しばしば文系学部選択の受験生に拮抗するか、勝るのである。つまり単に理系の学生の方が平均的に優秀だということになる、文系科目においてすら。

これは十分に予想されることで、実際文系に「転向」する理系受験生は多いが、その逆はまれだ。数学や物理についていけなかった生徒が己を「文系である」と消極的にアイデンティファイする(せざるをえない)一方で、数学や物理を得意とする生徒は己を「理系である」と積極的にアイデンティファイする。この差は大きい。無論、国語や英語が著しく得意であることをもって己を積極的に文系とアイデンティファイすることも世には少なからずあるだろうが、「国語や英語が苦手である」という理由で己を「消極的に」理系とアイデンティファイする生徒となるとぐっと頻度が減るだろう。理系の受験生はたいてい国語も英語もさほど苦手とはしていないものである。この辺は各論には適用できなくとも、総論としては定量化できる程度の事実であろうかと考える。

してみると世の中にいるのは「理系と文系」ではなく、単に「理系と理系が苦手な人」ということになるのではないか。これが結論ではいかにも癪だ。いかに自分が理系マインドの持ち主であるなどと自任してみたところで、私はやはりながらく文系学部に学費を払い、文系学部から給金を得ていた立場である。これで「文系」の積極的な意義と価値とを主張できなければ、自我の拠り所にかかわる。

「文系の人」の周辺で言うと、「文系・理系の区別」はふつう、「文系の人」が数学や物理化学を苦手としていることの自嘲に持ち出される。しかし思えば、数学や物理化学を苦手としている(していた)ことは単に、理系科目の成績が悪かったというだけのことしか意味しない(非理系の確認に過ぎない)のであって、その人が「文系の人」であることを保証しない。上の安藤氏のごとく、「文系人」としての積極的な自負がある場合などむしろ少ない。

問題はここである。「文系人」としての積極的な自負とは何か。

弟は何を忘れたのか

安藤氏の「弟は何を忘れたのか」という問いは、それに一つの答えを与えているように思う。

理系学問の礎、数学は原則として抽象・捨象の学問である。林檎と梨と蜜柑が合わせて「三つ」になる世界である。四人の人間と、四つの次元と、四つの行列が、望めば等価に扱える世界である。ヒルベルトの言うように、点と線と面が、それぞれ机とコップと定規(だったかな)でも構わないような、約束事だけで成り立つ抽象世界である。

だが、ここにその「三つ」は林檎だったのか、梨だったのか、蜜柑だったのかと、そこに拘泥する者がいたら、その時、それは一つの問題を構成する。還元に向かう学の世界と、どこまでも細部に拘泥する学の世界は、ベクトルは異なってもスカラーの強度には変わりはない。

理系科目が夾雑物を廃して、たとえば実測誤差を勘案の上で、ある理論、理論値の正当性を確かめていこうとするときに、文系科目は時に徹底して「何が廃されているのか、なにが(便宜上)夾雑物とされたのか」を問い続ける。理想的には収束する理系科目の結論に対して、このとき文系科目は結論において発散する。もしかしたらこれが文系科目の目に見える難しさの由来かもしれない。

もっともこれは理・文を反対にしても持っていき方次第では同じようなことが言えそうだ。もとより雑ぱくな議論ではあるが、ともかく私は安藤氏の「弟は何を忘れたのか」という問いを忘れることが出来ない。あるいは、そもそも「兄は間に合うのか」という焦慮を自分に禁じることが出来ない。

冒頭の算数の問題からすると、これこれの条件で兄が何分後に追いつくかということだけで題意には足りているはずである。では問題を作った人はなぜに弟は「2キロ離れた駅に向かって家を出た」と冒頭に書き足したのだろうか!

これは実は数学的には無用な情報である。解答者を惑わすための、余剰の情報だったのだろうか? 実際には兄はぴったり七分後に、駅まで460メートルを残したところで弟に追いつくのである。つまり弟の出発の22分後に、弟は1540メートル地点で「忘れ物を届けに来た兄」に呼び止められることになるのである。この計算自体に弟の目的地「駅」も道程が「2キロ」であることも係(かかずら)わない。

ここで弟が向かったのが「駅」だったのは偶然なのだろうか、そして駅までの距離が「2キロ」だったのはたまさかのことだったのだろうか? とんでもない! 弟が駅に向かったということは、兄がもし間に合わなければ弟は電車に乗ってしまい、それっきり決して追いつくことが出来ないということを含意しているに他ならない。それはすなわち弟があえなく「弁当無しの昼」なり「意に染まぬ体育の見学」なりを強いられる運命を意味している。駅までの距離が2キロだったのにも意味がある。人は通常はざっくり時速4キロほどで歩く。2キロの道程の所要時間はざっくり30分。対して、兄が弟を追い始めるのは、弟の出発後15分後である。この段階で弟はすでに道程の半ば(この問題では正確には1.05キロに達している)を過ぎている! 兄は弟の倍のスピードで自転車を走らせても追いつけないのである。

そりゃあ兄の方だって「首筋に玉の汗を浮かべて」追いすがりもするだろうさ。

明らかにこの問題にはサスペンスがある。この問題には「文学」がある。文人を感動させるドラマがある。つい呼び捨てにしてしまったが安藤先生ごめんなさい。

文人が(あっ、また)この問題の数学的側面を無視して、「そんなにまでして兄が届けたかった忘れ物は何だったのか」と夢想にふける理由はありすぎるほどある。文人の炯眼は何でもない算数の問題に、それとなく書き足されていた重要な情報を見逃すことが出来なかった。この問題には「読む」ことを強いる、「読め」と命じる、たしかに文学的な意匠が施されていたのである。これに立ち止まらずして「文系人」の自負はあるまい。

だから文人は読んだのだ。なぜ「駅」、なぜ「2キロ」、その細部に事態の切迫を告げ知らせる兆しがあり、それでも弟を追った兄の決断があり、しからば兄が急ぐよっぽどの理由がなければならない。どうしても弟に届けなければならない何かがあったはずなのだ。なにか大事なものが。

「弟が忘れたのは何だったのか?」それは文人の夢想ではない。この短い問題文の中にありありと浮かび上がる、問うべき問いであった。答えが「7分後」、それでよかったのなら、ただそれだけのことなら、この問題が「このように」問われる必要はなかった。

そして問題が現に「このように」問われている以上、文人は「忘れ物は何だったのか」との想いを致さざるを得ない。

これが「読む」ということ、強く言えば「文系」の仕事の一端である。

(もういちいち断らなかったが、安藤文人先生に、勢い余って何度も呼び捨てにしたことをお詫びします)

Published in: on 2011/09/26 at 15:50  ある「落ちこぼれ」の弁解 はコメントを受け付けていません